「天使の分け前」っていう言葉がある。
もう20年以上も前にサントリーのテレビCMで聞いた言葉だ。サントリーの「山崎蒸留所Blog」に、それについて書かれたブログがあった。内容は、商品の宣伝になっちまっているのが、時代なのだろう。若さというのはそういうものだ。
長年、樽の中で熟成された酒は、10年も経つと、当初の8割の量になっている。この2割を天使の分け前と言うというアレである。
小林秀雄は、古典に学んだ人でもあるのだが、新潮社の「人生の鍛錬」の1954年~1958年 52歳~56歳の項に、以下の文がある。
「現代人は、歴史的とか進歩とかいう考えに慣れきっている。平たく言えば、あの人は偉い人かも知れないが、もう古い、と考え、古い人かも知れないが偉い人だとは考えたがらないのである。
古典という言葉の意味は、後ろの方の考え方からしか生きてこない。…」
過去の道徳観念や、無知による嗜好や思考の限界は、今、夏目漱石やベルクソンを読んでいるが、身にしみてわかる。
そういうことを考えていると「無知の取り分」という考えが頭に浮かぶ。無知なるが故に知りえなかったこと、これは思考だけでなく、道徳や嗜好についてまでその範囲は及ぶ。無知なるが故の道徳、無知なるが故の嗜好。
実は、掠め取られたその中にこそ、「生きて考えた優れた人間の姿」があるのかも知れない。
時によって、掠め取られる天使の分け前というのは、「分析によって限定する過去の一思想の歴史的構造」ではない。掠めとられるか否かは、その人によるらしい。
「古典とは、理解されるものというより、むしろ直覚されるものだ」と小林秀雄は言う。
直覚すべき文章というものがある。「文章も読むだけでは足りない、眺めることが大事だ」という言葉は、形だけで語りかけてくる美術品を、ひたすら眺め続ける訓練から得ただけではない。
彼の人生の直覚から来ている。それに較べたら、嫌悪や、美醜や、怒りなどは、取るに足りない小さな感情であろう。
なにを見るかが重要であって、なにを見ないかということには意味などない。
それは、すべて個人的な体験であって、人と共有することに意味などない。
天使は孤独なのだ。
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