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2008年1月

2008年1月30日 (水)

にわとりが先かたまごが先か

「ヒントはいらんから、答えをくれ!答えを!」って言ってる人がいる。

あれは、天才的だ。答えをくれ!まさにそのとおり。

自分が、そう言われたら、こう答えるだろう。

「すごい。そのとおりだ。答え!すばらしい。その要求は天才的な要求だ。みなが欲する根源的なものだ。そんな、すばらしいあなたには、ヒントをあげよう」

堂々めぐりである。

「にわとりが先か卵が先か」っていうのは命題だと思っている人がいるんだけど、あれは、命題ではなく、事実で真理なんだということに気づいている人は結構少ないらしい。

判れよ、そのくらい。

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2008年1月12日 (土)

無知の分け前

「天使の分け前」っていう言葉がある。

もう20年以上も前にサントリーのテレビCMで聞いた言葉だ。サントリーの「山崎蒸留所Blog」に、それについて書かれたブログがあった。内容は、商品の宣伝になっちまっているのが、時代なのだろう。若さというのはそういうものだ。

長年、樽の中で熟成された酒は、10年も経つと、当初の8割の量になっている。この2割を天使の分け前と言うというアレである。

小林秀雄は、古典に学んだ人でもあるのだが、新潮社の「人生の鍛錬」の1954年~1958年 52歳~56歳の項に、以下の文がある。Photo

「現代人は、歴史的とか進歩とかいう考えに慣れきっている。平たく言えば、あの人は偉い人かも知れないが、もう古い、と考え、古い人かも知れないが偉い人だとは考えたがらないのである。
古典という言葉の意味は、後ろの方の考え方からしか生きてこない。…」

過去の道徳観念や、無知による嗜好や思考の限界は、今、夏目漱石やベルクソンを読んでいるが、身にしみてわかる。

そういうことを考えていると「無知の取り分」という考えが頭に浮かぶ。無知なるが故に知りえなかったこと、これは思考だけでなく、道徳や嗜好についてまでその範囲は及ぶ。無知なるが故の道徳、無知なるが故の嗜好。

実は、掠め取られたその中にこそ、「生きて考えた優れた人間の姿」があるのかも知れない。

時によって、掠め取られる天使の分け前というのは、「分析によって限定する過去の一思想の歴史的構造」ではない。掠めとられるか否かは、その人によるらしい。

「古典とは、理解されるものというより、むしろ直覚されるものだ」と小林秀雄は言う。

直覚すべき文章というものがある。「文章も読むだけでは足りない、眺めることが大事だ」という言葉は、形だけで語りかけてくる美術品を、ひたすら眺め続ける訓練から得ただけではない。
彼の人生の直覚から来ている。それに較べたら、嫌悪や、美醜や、怒りなどは、取るに足りない小さな感情であろう。
なにを見るかが重要であって、なにを見ないかということには意味などない。

それは、すべて個人的な体験であって、人と共有することに意味などない。

天使は孤独なのだ。

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