賽の河原で遊ぶ人々
「胸腺が一番激しく働いているのは生後間もなくで、最も大きくなるのが十歳くらい、35グラムほどになります。
それからは急速に小さくなって、四十歳くらいになりますともう十分の一ぐらいになっていますし、七、八十歳ぐらいになりますと、何十分の一になってほとんど脂肪でおきかえられてしまうんですね。しかし完全になくなるというわけではなくて、ほんのわずかは必ず残っています」(『河合隼雄対話集 こころの声を聴く』 新潮文庫より)
「胸腺のなかで増殖した細胞のすべてが免疫に参加するわけではない。実は、胸腺で生まれた細胞の90パーセント以上、96~97パーセントもの細胞は、胸腺から出て行くことなしに、そのまま死んでしまう。したがって胸腺はT細胞の誕生の場であると同時に墓場でもある。ここに群がるように増え続けている細胞の大方は、敵に出会う前に空しく死ぬのである。この壮大な無駄と冗長性が、免疫系を特徴づける重要な要素であることはあとでわかる」(『免疫の意味論』 第二章より)
複雑系システム、スーパーシステムと呼ばれる人体の免疫システムと、カオス理論を結びつけて考えた人は多いと思う。すぐに、人体は観測による予想が不可能なシステムではないということに気付くので、そうではないということがわかる。経験則にあてはまるような法則でありながら、予測も計算もできないというものというのは、人の心をくすぐる。そういう意味でカオス理論というのはテンプティングだ。なんでもぶら下げたくなってしまう。危ない、危ない。でも、そういうモーメントのあるモノを探求すること、科学を志す人はそれを追い求めてきたのだし、それが理系の学生のロマンだったりもすると思っている。
無意識が、人にとってαでありωであるということに、心理学をかじったことがある人なら必ず囚われるはずである。その中で生まれて、出て行くことなしにそのまま空しく死んでしまうモーメント。それは人と重なってみえてしまってしょうがない。何モノかになれる人の割合というのは、そういう計測値と同じような値になるのかも知れない。。それはさておき。
なんらかの原理と法則を、体のなかに見つけようとすること、なんらかのシステムを自然界に、社会に見出し、それを仮想的に構築しようとすること。そしてそれを未知の分野に演繹して考えること。そんなことは、科学者がだれでもやっていることである。この本の名前が「意味論」であることを考えればわかるばずだ。多田富雄さんは、免疫学者である。能もやっておられるのだけれど。
もはや、人文系の学者に出る幕などなくなって来ている。数学的素養のない人に存在価値はないと決め付けるには早いかどうかは、今後の巻き返し次第だとおもう。
理系の学者さんとつながりをもつこと、そのとき何を提供できるかということを考えたほうがいい。だから、人文系の学者さんは遊んでナンボだと思っているのである。その人が、何モノかになれる割合というのはそれもこれも含めての割合だったりもするのかも知れないと。そんなふうに思う。
一人で何かを考えて構築できるという幻想は、もはやいまどき幻想でしかない。「ひとつ積んでは母のため」なんて賽の河原で遊んでないで、もうちょっとこっち側へきたほうがよい。
科学という鬼は、いまどき結構強力になっているのだ。積んだ石を鬼に壊されないうちに。
ちなみに、もう仮想的にはみんなで遊んでいるみたいなので、本当にこういうつながりがあったら、いいなあと思ってしまった。さすが、正剛さん。




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