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2008年2月

2008年2月28日 (木)

賽の河原で遊ぶ人々

Photo_2 『免疫の意味論』を読み始めた。

「胸腺が一番激しく働いているのは生後間もなくで、最も大きくなるのが十歳くらい、35グラムほどになります。
それからは急速に小さくなって、四十歳くらいになりますともう十分の一ぐらいになっていますし、七、八十歳ぐらいになりますと、何十分の一になってほとんど脂肪でおきかえられてしまうんですね。しかし完全になくなるというわけではなくて、ほんのわずかは必ず残っています」(『河合隼雄対話集 こころの声を聴く』 新潮文庫より)

「胸腺のなかで増殖した細胞のすべてが免疫に参加するわけではない。実は、胸腺で生まれた細胞の90パーセント以上、96~97パーセントもの細胞は、胸腺から出て行くことなしに、そのまま死んでしまう。したがって胸腺はT細胞の誕生の場であると同時に墓場でもある。ここに群がるように増え続けている細胞の大方は、敵に出会う前に空しく死ぬのである。この壮大な無駄と冗長性が、免疫系を特徴づける重要な要素であることはあとでわかる」(『免疫の意味論』 第二章より)

複雑系システム、スーパーシステムと呼ばれる人体の免疫システムと、カオス理論を結びつけて考えた人は多いと思う。すぐに、人体は観測による予想が不可能なシステムではないということに気付くので、そうではないということがわかる。経験則にあてはまるような法則でありながら、予測も計算もできないというものというのは、人の心をくすぐる。そういう意味でカオス理論というのはテンプティングだ。なんでもぶら下げたくなってしまう。危ない、危ない。でも、そういうモーメントのあるモノを探求すること、科学を志す人はそれを追い求めてきたのだし、それが理系の学生のロマンだったりもすると思っている。

無意識が、人にとってαでありωであるということに、心理学をかじったことがある人なら必ず囚われるはずである。その中で生まれて、出て行くことなしにそのまま空しく死んでしまうモーメント。それは人と重なってみえてしまってしょうがない。何モノかになれる人の割合というのは、そういう計測値と同じような値になるのかも知れない。。それはさておき。

なんらかの原理と法則を、体のなかに見つけようとすること、なんらかのシステムを自然界に、社会に見出し、それを仮想的に構築しようとすること。そしてそれを未知の分野に演繹して考えること。そんなことは、科学者がだれでもやっていることである。この本の名前が「意味論」であることを考えればわかるばずだ。多田富雄さんは、免疫学者である。能もやっておられるのだけれど。

もはや、人文系の学者に出る幕などなくなって来ている。数学的素養のない人に存在価値はないと決め付けるには早いかどうかは、今後の巻き返し次第だとおもう。

理系の学者さんとつながりをもつこと、そのとき何を提供できるかということを考えたほうがいい。だから、人文系の学者さんは遊んでナンボだと思っているのである。その人が、何モノかになれる割合というのはそれもこれも含めての割合だったりもするのかも知れないと。そんなふうに思う。

一人で何かを考えて構築できるという幻想は、もはやいまどき幻想でしかない。「ひとつ積んでは母のため」なんて賽の河原で遊んでないで、もうちょっとこっち側へきたほうがよい。

科学という鬼は、いまどき結構強力になっているのだ。積んだ石を鬼に壊されないうちに。

ちなみに、もう仮想的にはみんなで遊んでいるみたいなので、本当にこういうつながりがあったら、いいなあと思ってしまった。さすが、正剛さん。

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2008年2月14日 (木)

影との付き合い方

遠藤周作さんの『沈黙』をしばらく前に読んだ。そのだいぶ前に『深い河』を読んだのであるが、やはり、仮面を被って書かれているように感じてしまってしょうがない。
狐狸庵先生にしてもそうで、これもそれら本筋の作品に現れる彼の理性をわざとごまかす仮面のように思える。

Photo_2 今、河合隼雄さんの『影の現象学』(講談社学術文庫)を読もうとしている。解説を、遠藤周作さんに書いていただいたとの序。それで、解説から最初に読み始めた。その中に、おもしろい逸話があった。

「私の友人に井上神父というカトリック司祭がいるが、彼が「世にも怖かった話」としてリヨン時代の下宿での出来事を話していた。神学生のころ、彼はリヨンの老夫婦の経営する家に一夏下宿をしていた。その家の夫は病弱で妻はとても献身的だった。そして医者は妻に、夫のための食事療法の大切さを説き、病人が食べていいものと食べてはならぬものを教えているのだった。
だが、井上神父が不思議に思ったのは、毎夜食卓に出る愛情をこめて作られた料理は - 医師から禁じられているものだったのである。井上神父はびっくりして病人の妻にそれを注意した。
妻はよくわかっていると泪ぐみ、その翌日もその翌々日もやっぱり「食べてはならぬ食べ物」を夫の皿にのせた。そして夫がそのためぐったりと疲れ、胃の苦しみを訴えると妻は泣いて悲しむのである。彼女は本当に夫を愛しているのだ
この人間の複雑な心理。井上神父はついにこわくなって「その家を出て別の下宿に移った」という。」 

影の現象学をあつかった本の解説としては秀逸なエピソードである。これは、母性ともつながっている。ユングは、母性の本質として3つの側面をあげている。すなわち、「慈しみ育てること」「狂宴的な情動性」「暗黒の深さ」。

この本の解説で、遠藤さんは、自分を二重人格、どころか三重人格者ではあるまいかという気持ちが絶えずつきまとっていたといわれている。

ところで、太線で書いた部分というのは、遠藤さんのこころを現しているのだと思う。読んでいて違和感があったのだが、これが遠藤さんの本当の気持ちなんじゃないのかという気もしている。三重人格の三つ目が、河合さんの本の解説という飾らない素直なところで、やっと出てきている。解説全体に、そういう雰囲気が流れているのがわかる。そんな気がした。

が、ことはそんな簡単ではない。同じ解説で、

「ほんとうの内づらとは正宗白鳥の言った「どんな人にも、それを他人に知られるくらいなら死んだほうがマシだという顔がある」というその顔である。」
ということを言われている。

彼女は本当に夫を愛しているのだ
遠藤さんがそう言わざるを得ない、そう思い込みたいと思っているそのこと自身がそれを裏付けている。それが、私が感じた違和感の原因である。

母親との関係を常に意識されていたという遠藤さん。
人は、なにものかを対象として意識する、あるいは理想の鏡像として意識する過程で、そのもの自身を自分の中に取り込まざるを得ない。しかし、それは他者として。いま、ラカンの鏡像段階の本を読んでいるが、その他者としての母親が、彼の意識の中で辿るであろう運命というのは、書くのも恐ろしいのであるが、実はそれがもっとも他人に知られたくない遠藤さんの顔なのかもしれない。

が、しかしである。「べつにそんなの普通のことだから、そんな自分に目くじら立てなくてもいいのに」と相変わらず思ってしまった。

ほんとうに、やさしい人というのは生きるのは辛いと思った次第である。ただ、私のように割り切ってしまうと、生きる上での感動がなくなる。そっちの人にとっても、そういった意味で、生きるのは辛いことなのだが。。 

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