欲望の形
「夢をかたちに」とか「なりたい自分を想像する」とか「3年後をイメージする」とか、いろいろ言葉がある。
目標を持って計画を立てるというのもある。目標というと、いくぶんイメージがはっきりしてくる。
『魂というものがあるならば形に出る筈だ』という言葉はここんところずっと引っかかっている言葉なのだけど、なんだかわかったようでわからない言葉なのでずっと引っかかり続けていた。
たとえばモーツアルトとかミケランジェロだとか井戸茶碗とか、まあその筋の人がみたら誰でも唸るっていうものがある。
彼がいう魂っていうのは、人というもの全体の魂であって、そんなふうに究極的になにか最も崇高な形というのがあって、それに集約されるべきものだと思っていたのだけれど。
はたしてそうかというとそうには違いないのかも知れないけれど、それぞれの人の手元に降ろしてくれば、その人独自のものとして何を目指すのかというところに行き着かないといけないような気がする。
なにかはじめから崇高なものがあってそれを目指すっていうのは、言葉としては成り立つが実際にはあり得ない。
はじめからぼんやりしたものなど目指せるわけがない。
『思想というのも目に見えるものでなくてはいけない』。
青山さんがそれを示すために白洲さんをあるバアのマダムのアパートへ連れて行く。バアのマダムは守銭奴で実は金持ちなのだが、金が惜しくて家賃の安いそのアパートに住んでいる。そのマダム、銭湯のかえり際にアパートの廊下にぶら下げてある他人様のネギを夕飯の材料にと何本か引き抜いていくのだが、その様子を見せて「あれが思想というものだ」と。
最初、いやいやそれは思想じゃないだろうと思ったのだが、これを通じて白洲さんが言わんとしたのは、「形のないものは信じない」という青山さんの徹底した生き方であって、なにもケチが思想だのどうのと言っているわけではないのだとやっと気づいた。
それが青山二郎の眼の真髄なのだと。
欲望にも形がある。明確な形を持たない欲望は、自分も他人をも疲弊させ、生きる力を内側から蝕む。
村上龍、ある女子高生と話したときに、話していると生気を吸い取られるみたいに疲れるんですよと言っていた。なにを聞いてもそのコの形が見えないと。
好きな音楽はというと「華原朋美と小室哲也は聞く」と。小説は読まない。テレビも見るけどとくに好きなアイドルがいるわけでもない。食べ物はお寿司が好きというから、じゃあ「お寿司食べに行くときはワクワクするの?」と聞くと寿司屋にいくわけじゃなくて、唯一ワクワクするのが、父親が折り詰めの寿司を買ってくるときだと言う。将来どんなライフスタイルをイメージしているのと聞くと「楽な感じで、自分の時間があって、友達とおしゃべりができるのがいい」と。
年寄りと話しているみたいでゾーッとして、思わず後で酒を飲んじゃいましたよと龍氏は言っていて、うーんと唸ってしまった。
仕事をしていても達成感が得られない。そういう体験はだれにでもあると思う。
次から次へと終わらないうちから次の仕事にとりかからなくてはいけなくて、エンドレス。まるで、切れることのないチェーンの鎖のようで消耗してしまうのである。
終わりがない消耗戦だから達成感というものが薄まってしまうのかと思っていたのだが、実はそれは違ったのだということに、今になってはっと気がついた。
ある仕事をしたときに達成感のあるものとないものがある。
達成感のあったものは、稀にしかなかったのだが、明確な完成のイメージがきちんと持てたものであった。完成のイメージが持てないものというのは、結局のところ実は筋がわるいものなのである。
筋がいいもの、筋がわるいもの、その違いは、自分がそれに携わっていたときに明確なイメージ、何をすべきか、何を目的とするのかというのが形として明確に見えているか否か。その一点に集約される。
自分の欲望の形を明確にすること。それがモノを作るときに、唯一気に留める点であって、ほかのことはまったくのところ大した意味などない。
魂には形があるはずだ。
その言葉は、そんな風に欲望を自分の手元に持ってきたときに初めて形を現す。
形として明確に欲望を見ること。
たぶん、そういうことなのだろうと今は思っている。



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