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2008年4月

2008年4月27日 (日)

欲望の形

「夢をかたちに」とか「なりたい自分を想像する」とか「3年後をイメージする」とか、いろいろ言葉がある。
目標を持って計画を立てるというのもある。目標というと、いくぶんイメージがはっきりしてくる。

『魂というものがあるならば形に出る筈だ』という言葉はここんところずっと引っかかっている言葉なのだけど、なんだかわかったようでわからない言葉なのでずっと引っかかり続けていた。

たとえばモーツアルトとかミケランジェロだとか井戸茶碗とか、まあその筋の人がみたら誰でも唸るっていうものがある。
彼がいう魂っていうのは、人というもの全体の魂であって、そんなふうに究極的になにか最も崇高な形というのがあって、それに集約されるべきものだと思っていたのだけれど。

はたしてそうかというとそうには違いないのかも知れないけれど、それぞれの人の手元に降ろしてくれば、その人独自のものとして何を目指すのかというところに行き着かないといけないような気がする。
なにかはじめから崇高なものがあってそれを目指すっていうのは、言葉としては成り立つが実際にはあり得ない。
はじめからぼんやりしたものなど目指せるわけがない。

『思想というのも目に見えるものでなくてはいけない』。
青山さんがそれを示すために白洲さんをあるバアのマダムのアパートへ連れて行く。バアのマダムは守銭奴で実は金持ちなのだが、金が惜しくて家賃の安いそのアパートに住んでいる。そのマダム、銭湯のかえり際にアパートの廊下にぶら下げてある他人様のネギを夕飯の材料にと何本か引き抜いていくのだが、その様子を見せて「あれが思想というものだ」と。

最初、いやいやそれは思想じゃないだろうと思ったのだが、これを通じて白洲さんが言わんとしたのは、「形のないものは信じない」という青山さんの徹底した生き方であって、なにもケチが思想だのどうのと言っているわけではないのだとやっと気づいた。

それが青山二郎の眼の真髄なのだと。

欲望にも形がある。明確な形を持たない欲望は、自分も他人をも疲弊させ、生きる力を内側から蝕む。

村上龍、ある女子高生と話したときに、話していると生気を吸い取られるみたいに疲れるんですよと言っていた。なにを聞いてもそのコの形が見えないと。
好きな音楽はというと「華原朋美と小室哲也は聞く」と。小説は読まない。テレビも見るけどとくに好きなアイドルがいるわけでもない。食べ物はお寿司が好きというから、じゃあ「お寿司食べに行くときはワクワクするの?」と聞くと寿司屋にいくわけじゃなくて、唯一ワクワクするのが、父親が折り詰めの寿司を買ってくるときだと言う。将来どんなライフスタイルをイメージしているのと聞くと「楽な感じで、自分の時間があって、友達とおしゃべりができるのがいい」と。
年寄りと話しているみたいでゾーッとして、思わず後で酒を飲んじゃいましたよと龍氏は言っていて、うーんと唸ってしまった。

仕事をしていても達成感が得られない。そういう体験はだれにでもあると思う。
次から次へと終わらないうちから次の仕事にとりかからなくてはいけなくて、エンドレス。まるで、切れることのないチェーンの鎖のようで消耗してしまうのである。
終わりがない消耗戦だから達成感というものが薄まってしまうのかと思っていたのだが、実はそれは違ったのだということに、今になってはっと気がついた。

ある仕事をしたときに達成感のあるものとないものがある。
達成感のあったものは、稀にしかなかったのだが、明確な完成のイメージがきちんと持てたものであった。完成のイメージが持てないものというのは、結局のところ実は筋がわるいものなのである。
筋がいいもの、筋がわるいもの、その違いは、自分がそれに携わっていたときに明確なイメージ、何をすべきか、何を目的とするのかというのが形として明確に見えているか否か。その一点に集約される。
自分の欲望の形を明確にすること。それがモノを作るときに、唯一気に留める点であって、ほかのことはまったくのところ大した意味などない。

魂には形があるはずだ。
その言葉は、そんな風に欲望を自分の手元に持ってきたときに初めて形を現す。
形として明確に欲望を見ること。
たぶん、そういうことなのだろうと今は思っている。

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2008年4月26日 (土)

KT - 我慢 is freedom♪

KT。

ITな今だからこそ。

祝!切手趣味習慣。

TVBros、あいかわらずわけわかりません。むちゃくちゃですな。

そして、シャラポワとみうらじゅんの写真です。

「シャラポワも実は切手愛好家なんですって」。

いら~ん!そんなマメ知識(笑)


以前、シンポジウムごっこの話 をしたのだけれど、そのとき、ある発表に対する講評で、外人のなんちゃら大学の先生が、得意げに、一般日本人ピーポーは絶対知らないような江戸時代の日本の学者先生とその説を複数並べ立てて、青い目で「どーだい!」って感じだったのを思い出す。ん?緑だったかもしれない。いやいや、茶…(略)

それに対する聴講者の日本人のセンセー方や学生たちの表情は。。

人間の機械的な様相に対する批判。それに対する笑い。

矯正のない『場』では、こういう様相は『笑い』に繋がらない。

「このおっさん、なかなかやるな」。私はそう思ってしまった。

情けない話で涙がこぼれてくるのだが、そういう余裕のなさというのは知識の量だけできまるわけではない。

遊びや人間の幅というのは、才能なのかもしれない。みうらじゅん氏とか糸井さんを見ててそう思う。

だが、そういうのは限界を超えたときに得られたりもする。あるいは、何かにいかに自分で熱中できるか。

そういう経験を何度できるかできないか。

みなが言うように人生の醍醐味っていうのはそこにあるのだろう。

いや、ちょっと待てよ。もしかして、あそこで笑わない。それは織り込み済みなのか?

みなの表情を見る余裕がなかったんだよね~。こらえていたような気もしないでもない。

キスをすると、1秒間に2億個の細菌が行ったりきたりするんだよ。」

そういう攻撃を、如何に我慢して乗り越えるのか。やはり、それが人生の醍醐味なのか。

あるいは、いかに笑わないかというある意味、最近の「ガキの使い」のダウンタウンみたいな我慢大会状況を、友達と飲みに行ったときに大笑いするために、とりあえず我慢するというのがお作法なのか?

たしかに、もう、ぷぷ。。トポ、トポロジー。。いやいや、それを我慢するのかしないのかは。。

自由だぁ~

我慢 is freedom♪ 我慢 is freedom♪

やっぱり、でもそれを我慢するのが、大人の修行なんやで。(T_T)

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覚醒と麻痺

生命の歓喜の中で見えるものを、覚醒って言い切るのも「うーん?」って感じだ。

脳内麻薬が爆発的に増大したときに見える何かは、真理なのかただの幻覚なのか?

まあ、どっちでもいいや。

どっちにせよ、覚醒やら麻痺やら、多分それは自分の体を使って行うことでしか得られない。

そういう意味でどちらも見たり読んだりしてる分には大差なんてない。

自分でやらないとオモロくはない。

個別の希望っていうのは、絵に書いたモチを眺めることではないということは、昔っから自明の話だ。

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2008年4月22日 (火)

ひとりごと

人を変えるのは難しい、自分を変えるほうが簡単だ。

自分が出会う人は選べない。出会うすべての人を思い通りに変えることなんてできない。出会う人全部に文句を言ったってキリがない。自分をしなやかに変えるほうが楽だというのは自明な話だ。仕事してても、人の時間を操作することは難しいけれど、自分の時間なら自分で制御できる。そういうのは、あたりまえにやっていることだったりするのだけれど。。

コンプレックスにしばられると、あたりまえのことが見えなくなるようだ。

人は人、自分は自分。

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2008年4月13日 (日)

あそび

かつて実際に出会った人で、こんな賢い人は見たことがないという人は、誰でも一人はいるとは思います。

東大の純粋数学卒の上司で、マージャンパイを並べずにランダムに持ったまま、あがる人がいました。基本的に私とは頭の作りが違うと思ったのですが、おそらく彼は私とは違った遊びをマージャンの中に見つけていたのだろうと思えます。

ジョン・フォン・ノイマンは、ランダムに電話帳をめくって、そこに書かれている番号の総和を言って遊んでいたそうです。こうなってくると桁が違います。

よく、「論理的でない」とか「わかりにくい」と他所様の書籍やニュース記事の文章を指摘されてる人がいますが、結局、そういう人は自分は「遊ぶ力がない」のだということを露呈しているだけなのですが、たぶんそういうことがわかってないのでしょう。わたしも、よくやってしまいますが。なんにせよ、批判というのは怖いものです。

私はルービックキューブは解けません。言葉遊びは好きですが。そういえば、余裕と言う意味で「あそび」という言葉も使いますな。

簡単なパズルはわかっている人にはつまらないものです。「遊び」にも、壁はある。そういうとこだろうと思います。

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2008年4月 9日 (水)

カリスマ性

カリスマ性というのは、自分の中にあるタナトスを呼び起こしてくれる人に対して感じるものかもしれない。

自分を破壊してくれる人、経験や考え方や生き方を破壊して再生されるべき方向を体現してくれる人。

美、知、力、人間力、総合的に自分の限界を超えている、もしくは自分がもっとも自信がある部分でそれを凌駕している人。

それらが嫉妬や妬みや、自己保存本能というものを超えるのは、『運命を託す衣装』をその人がまとっているからだ。

フロイトとラカン。タナトスと鏡像段階の理論というのは、カリスマとか、いわゆる生と性の香りがする、こういうものによく沿う。

あながち、彼らを否定することはできない。現在の正統派心理学の限界というのはそういうところにある。科学ではない。臨床で、科学が「使えない」のであれば、方法論は別に構築すればよい。実証不可能な理論は仮想にしか過ぎないのであれば、それを求めるのは茶番でしかない。

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2008年4月 5日 (土)

父の日に

オカンというのは、イタいものなのですが、果たしてイタいおとんというのがいるのでしょうか。

いま、考えて見るとたとえば、『大日本人』なんかは、イタイおとんを松本氏が書きたかったのじゃないかとも思えます。
松本氏がこの『大日本人』について、「笑い」のもつ寂しさとか哀愁を追求してみたかったっていうのは、彼が持つオトンに対する哀愁につながってるような気がします。
イタイおかんは、笑えるのですが、イタイおとんは笑えません。どうしても「よろしく哀愁」になってしまいます。田原俊彦のイタさに繋がるものがあります。

中学生のときとかは、友達のおとんの話で結構盛り上った記憶があります。結構、笑えるオトンはいたような気がします。
そのころは、みんな父性というのから離れてだいぶオトンという生物を冷静に見るようになっていたからかもしれません。
なぜ、あの頃は笑えて、今笑えなくなったのかが結構不思議だったりします。
『東京タワー』も、「ときどきおとん」であって、おとんというのは寂しい生き物です。

石垣りんに、『父の日に』という詩があります。
「向こうに 立っている お父さん。」で始まるこの詩は、やはり同じ文句で終わります。

はじめから 終わりまで。
向こうの方に 立っている お父さん。

なかなか、父の日にこんな詩を読まれても悲しいものがあります。

大笑いしたこともあると思うのですが、そういう話を覚えていなくて残念なのですが、中学生にオトンの笑い話コンテストとかで文章書かせたら結構面白いのが集まるとおもうのですが、どっかでそんな企画をする雑誌とかないのかなあとも思います。
PHP、どうもタメになる話を意識しすぎているように思うのですが、ああいう書籍は、だいたいオトンが読んでいるものなんで、そういう話で落として欲しいといくらか世のオトンは思っていると思います。

父の日は、6月第3日曜日。父の日でない今日、こんな文章を書いてしまっているところがすでに父の存在の悲しさだったりします。

台湾の父の日は、8月8日で、中国読みでも「パパ」となるそうです。
日本でも、8月8日にすればよいのにとも思いますが、「はは」とも読めるところがやはりどうあっても、父というのは哀しいところだったりするのかもしれません。

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