『真夏の死』 三島由紀夫 新潮文庫
人の手放しの批判を読むのは好きではない。それは、自分が傷つきたくないという恐怖からきているのだろう。
まあ、そういう告白はともかく。
三島由紀夫の『真夏の死』をやっと読み終えた。
中学校のとき太宰治の『人間失格』を読んで目が眩むような思いがした。いまだにそれ以上に、自分の足元をすくうような本には出会ってはいない。多感な時期に読んだからだろう。
もう何を読んでも足元はふらつくことはないが、それでも『人間失格』にあった、人が持つ動物としてのサガを鷲づかみにして手元で見せられるような、そんな感じは体のどこかが覚えていた。それを思い出した。人の持つ業などではなく、もっと直接的で動物的ないやらしさ、それを目の当たりに見せられる。自分の中に呼応するものがある。それを知る。それに対する嫌悪。
三島の短編は違う。毒の種類が違うのである。頭を通して効くのではない。もっと直接に体に直に効く猛毒。いっきに体に来るので甘美がない交ぜとなって体が震える。
いずれにせよそんな経験をさせられる小説はいまのところ自分にとってはこの2冊しかない。まあ、本というものを読んでないからかも知れない。
表題作の『真夏の死』は、巻末で三島自身が語っているとおり、眼目は最後の一行にある。海を眺める朝子にはない。それを見た勝の反応である。なぜ、子供の手を握ったのか、それが体で直感できないと朝子にしか目が行かない。
「それは待っている表情である。何事かを待っている表情である」。そう思った主体が誰かということを見透かせないようだと、つまり、これを朝子側の「業」と読み違えるようでは、見方が浅いとしかいいようがない。あるいは深すぎるのか。
倉橋由美子は、「三島由紀夫は尋常ならざる作家で、…その短編は『悪』の濃度が高く、毒薬を口に含んで味わうような趣があります」と言っている。そう、ゆるい毒ではない。頭を通した後から効いてくる、そんなふうにゆっくり効くような毒じゃない。もっと純度が高い猛毒である。
これを中学のときに読んでたとしたら、はたしてそこまでわかったろうか。たぶん10年前でもわからなかったかもしれない。
さらに倉橋は続ける。「読み終わってそれを吐き出すか、そのまま飲み下すかは読者の自由です。私としては、「きき酒」の要領で、一度吐き出しては次々に三島由紀夫の短編を楽しむことをお薦めします」と。
再度言う。彼の毒は体に直接効く。頭を通して効くのではない。どうやら、飲んでも効かないような耐性をもった体の人もいるようで、それは頭に抗体を持っているのか、もともとそれに反応するものを体に持っていない人らしい。
まあ、自分も飲み干しても死なないようで、それは読むタイミングが悪かったのか、あるいはそれが嬉しいことなのか悲しいことなのかも、はかりかねているところである。
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