影との付き合い方
遠藤周作さんの『沈黙』をしばらく前に読んだ。そのだいぶ前に『深い河』を読んだのであるが、やはり、仮面を被って書かれているように感じてしまってしょうがない。
狐狸庵先生にしてもそうで、これもそれら本筋の作品に現れる彼の理性をわざとごまかす仮面のように思える。
今、河合隼雄さんの『影の現象学』(講談社学術文庫)を読もうとしている。解説を、遠藤周作さんに書いていただいたとの序。それで、解説から最初に読み始めた。その中に、おもしろい逸話があった。
「私の友人に井上神父というカトリック司祭がいるが、彼が「世にも怖かった話」としてリヨン時代の下宿での出来事を話していた。神学生のころ、彼はリヨンの老夫婦の経営する家に一夏下宿をしていた。その家の夫は病弱で妻はとても献身的だった。そして医者は妻に、夫のための食事療法の大切さを説き、病人が食べていいものと食べてはならぬものを教えているのだった。
だが、井上神父が不思議に思ったのは、毎夜食卓に出る愛情をこめて作られた料理は - 医師から禁じられているものだったのである。井上神父はびっくりして病人の妻にそれを注意した。
妻はよくわかっていると泪ぐみ、その翌日もその翌々日もやっぱり「食べてはならぬ食べ物」を夫の皿にのせた。そして夫がそのためぐったりと疲れ、胃の苦しみを訴えると妻は泣いて悲しむのである。彼女は本当に夫を愛しているのだ。
この人間の複雑な心理。井上神父はついにこわくなって「その家を出て別の下宿に移った」という。」
影の現象学をあつかった本の解説としては秀逸なエピソードである。これは、母性ともつながっている。ユングは、母性の本質として3つの側面をあげている。すなわち、「慈しみ育てること」「狂宴的な情動性」「暗黒の深さ」。
この本の解説で、遠藤さんは、自分を二重人格、どころか三重人格者ではあるまいかという気持ちが絶えずつきまとっていたといわれている。
ところで、太線で書いた部分というのは、遠藤さんのこころを現しているのだと思う。読んでいて違和感があったのだが、これが遠藤さんの本当の気持ちなんじゃないのかという気もしている。三重人格の三つ目が、河合さんの本の解説という飾らない素直なところで、やっと出てきている。解説全体に、そういう雰囲気が流れているのがわかる。そんな気がした。
が、ことはそんな簡単ではない。同じ解説で、
「ほんとうの内づらとは正宗白鳥の言った「どんな人にも、それを他人に知られるくらいなら死んだほうがマシだという顔がある」というその顔である。」
ということを言われている。
「彼女は本当に夫を愛しているのだ」
遠藤さんがそう言わざるを得ない、そう思い込みたいと思っているそのこと自身がそれを裏付けている。それが、私が感じた違和感の原因である。
母親との関係を常に意識されていたという遠藤さん。
人は、なにものかを対象として意識する、あるいは理想の鏡像として意識する過程で、そのもの自身を自分の中に取り込まざるを得ない。しかし、それは他者として。いま、ラカンの鏡像段階の本を読んでいるが、その他者としての母親が、彼の意識の中で辿るであろう運命というのは、書くのも恐ろしいのであるが、実はそれがもっとも他人に知られたくない遠藤さんの顔なのかもしれない。
が、しかしである。「べつにそんなの普通のことだから、そんな自分に目くじら立てなくてもいいのに」と相変わらず思ってしまった。
ほんとうに、やさしい人というのは生きるのは辛いと思った次第である。ただ、私のように割り切ってしまうと、生きる上での感動がなくなる。そっちの人にとっても、そういった意味で、生きるのは辛いことなのだが。。
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