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2008年7月31日 (木)

不安定という安定

BLUEBACKSの『進化しすぎた脳』(著:池谷裕二)に意思決定についてのおもしろい文章があった。

Photo 池谷氏、学生といきなりジャンケンをはじめるのだが、その際に出したグーなりチョキなりというのは、いったい何によって意思決定しているのかという話で、要は「特に理由はない」というところに行き着くと。

行き着いても、チョキなり、パーなりは出しているわけで、これはなんなのかというと脳のゆらぎだと。

「ネコに視覚刺激を与えて、視覚野のニューロンの発火する様子を測定したところ、発火するかどうかは、膜電位が浅いか深いかによって毎回違うという。つまり脳の内部の「ゆらぎ」によって、神経の反応が相当に違ってくることは、ミクロなレベルでも証明されている」

脳科学や生理学、生物学などというのは、物理学などとちがって実験の上でいろんな解釈が成り立つ。それゆえ、「信」と「知」が混合する実は結構怪しげな世界でもある。

アラン・ソーカルは「知の欺瞞」の中で、生物学というものと物理学というものを意識的に区別している様が散見されるのであるが、それはそういうところに起因する。

脳生理学者である池谷裕二氏は、まだこの本を書いた時点ではバリバリの研究者で若いということもあって、「知」と「信」に対する情報の扱いがあいまいで、かなりあやうい。この文章の後ろで展開されている彼の考えというのは、彼自身が断っているように「敢えて私は誤解を恐れずに、自分なりの意見を述べ」ているので、んん?となることもあるのだけれど、逆にそれで「いや、違うんじゃねえか?」っていう読者の思考のダイナミズムが削がれることがない。それが、若い人の本としてのBLUE BACKSの魅力だったり。

「名人は危うきに遊ぶ」というが、危ういところがおもしろいのは凡人にとってもそうであったりする。

ソーカルはソーカルですごい考え方は好きで、そこは絶対落としてはいけないし、「信」を「知」だと間違えたり、鵜呑みにさせられたりでバカをみるのはもうたくさんだと思うのだけれど、不安定さで遊ばなければ、いや遊べなければ、物理学の進展もないことを考えると、「脳のゆらぎ」なんていう怪しげな考え方も認めないと人生面白くはなかろう。

そういう意味で「脳のゆらぎ」というのは、不安定さを求めるべき人の真髄で、それこそ人の脳髄のようなものだとも思う。

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不安定という安定

『人の本当らしい言葉には血がない』とは青山二郎の言葉だ。

本当らしい言葉が上辺だけなのは、本当のことを言うと血が降るからだというのは河合隼雄さんの解釈。

本当らしい言葉を接がなくてはいけないというのは、人間というのが現象であって、本質ではないからだ。

大脳皮質と皮質の逆転によってコペルニクス転回がおこり、動物から人間へと進化したのだけど、身体というものがあるかぎり、動物であることから逃れられない。皮質をすべてコントロールするまで大脳皮質は発達はしていない。人の本質というのはまだ動物である。

いや、そういう不安定な存在であるということが人間の本質に違いない。

なんにせよ、現象というものは移ろいやすく、脆いものだが、『この世の本質というものは『現象』である』ということを考えれば、あるいは人が人として捉えられるものというものの限界が結局そういうことに集約されるならば、不安定であり続けること自体が、人間の極意であって、それこそが自然の摂理に、あるいは人間として生きる上での自然の摂理にかなっている。

目指すべきところは不安定という安定である。あたりまえのことだけれど。

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2008年7月17日 (木)

うわっつらな言葉

「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズト云へリ」

福沢諭吉の言葉だが、これはこれだけでは意味はなさない。

福沢諭吉を尊敬していると公言している会社の上の人がいて、「諭吉かよ」とちょっとバカにしてたのだけれど、この言葉のおかげで曲解してしまっていた。なんと、今までである。

この言葉の本当の意味は逆なのだが、頭の悪い大人が多かったせいである。あるいは曲解させてやろうという頭が良くて人間が出来ていない大人がいたせいかもしれない。そういう人の声ほどでかい。ウソをついているヤツの声がでかくなるのと同じようなものか。

過去の人の有名な格言というのは、有名であるほどそういう汚泥にまみれがちである。それは、世の常であって、どっかの政治家の言葉の一部だけを引用している新聞記事なども同じ。東スポと姿勢は変わらない。「すべてのものには裏がある。何事においても、裏を読み取れ」という信号をわざわざ発してくれているという点で、まだ東スポのほうが人は良い。

みずほファイナンシャルグループ社長の前田晃伸氏は、福沢諭吉と同郷で大分県中津市の出身である。家の近くの公園の石碑に、その福沢諭吉の

「独立自尊」

という言葉が刻まれていて、それを目にしながら育ったということである。

『学問ノススメ』。その言葉の真意は、「天のそういう意思にもかかわらず、なぜ人間に格差が出来てしまうのか。それは学問をすることとしないことの差からくる。そして、学問の目的とは、独立自尊なのである」ということであって、諭吉の要諦は冒頭に上げた言葉ではなく、本来はこの独立自尊という言葉に集約されるべきものであろう。

「これはとても孤独な言葉でもあります。誰かに寄りかかることなく、最後は自分自身で責任をとるということだからです。これまでの人生の中で私は、進路を決めるときや経営上の大きな決定を下すなど、決断が必要な場合では、常にこの言葉を思い浮かべ、心に置いて来ました。」。前田さんはそう続けていた。グループ総帥となられた前田さんは、そうご自分でこの言葉を踏まえられている。

諭吉は、まず「あんま」を身につけたそうだ。いざとなったら「あんま」で食べていける。

彼の言う学問とはそういうことも入っているのである。

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ブログ再立ち上げ

日記や覚書のためのブログを書いているうちに、知らないうちに読者を想定してしまって動きづらくなった。

もともと読んでもらおうという下心があったためである。

そういう気持ちはアメブロのほうへ移行できた。

なんらかの目的をもって、物事を始めたのち、付随する欲望に気づかずにやがてそちらに支配されてしまうことというのは、何事についてもよくあることかもしれない。

会社の組織変更や人事なんていうものもそういうことを解消するための一例だったりする。

肥大したなにかには別の容れ物を用意する必要がある。あたりまえのことだけれど。。

なにかというのは、常に『欲望』である。

『欲望』は常に『かたち』にせねばならない。

それはもはやただの考えではなく、『ものごとの摂理』であることに気がついた。

『欲望』には、筋道が必要だ。

会社に社是が、各組織に役割が、各課に目標があるように、欲望の多寡やレベルに応じて、それらは細分化されて、動的に改変されるものなのだろう。まだ、欲望のレベルというのが具体的に何かというのはわからないのだが。。

当ブログは、初心に立ち戻り、自分の頭の整理と記録のため、そしてそれらを捨てていくために書く。

なんらかの邪心があらわれれば、また容器をスピンアウトさせるし、このブログの中の記事も、邪心があれば、それらへコピペすることも辞さない。

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