池谷裕二

2008年9月21日 (日)

狂言まわしやら、科学入門書やら

対話、対談において名ホストは名狂言回しでなくてはいけなくて、しかもそれが無意識になされている必要がある。らしい。

進行役というのは役割的になにかを支配しなくてはいけないと当然思って進行している。彼ら自身としては。しかし、彼らや彼女たちのその意識の場に及ぼす力が強くなると、対話や対談はまったく面白くなくなる。ダイナミズムが生まれない。

TVの討論番組は見ないし、田原総一朗氏などは顔を見るのもイヤなのだが、いやいやどうして、自分は見るところを間違っていたんじゃねえかと。彼の思想やコンプレックスなどどうでもよくて、彼の狂言回しとしての能力というか無能力、意識にたいする無意識みたいなものが彼の力の本体で、それを感じないとダメだったのではということがやっとわかってきた。。

池谷裕二氏の『進化しすぎた脳』と『脳はなにかと言い訳する』を読んだ。その前にボブ・スナイダー氏の『音楽と記憶』を読み終わっていたのだけれど。

池谷氏の本の読後感がどうもあいまいで釈然としない。面白くはあるのだけれど、脳科学としての全体像がぼやけている。個々の話は面白かったのだが、だからといってなにも残らない。科学エッセイだからといえばそうなのかもしれないけれど。なんかそれにしても、彼を含め、日本の科学者が書いているこんな感じの本はどれも使い勝手がわるいというか、どうも科学的ですらないように感じる。茂木氏の本もそうだし、養老氏のなどは無残としか言えない。みな一様に、言ってることもどっか最終的におかしなところへ行く。池谷氏なんて脳科学の最先端で活躍していてすごい先生のはずなのにと。

それで村上龍の『対談集 存在の耐え難きサルサ』の浅田彰氏、蓮實重彦氏との対談を読み直した。

『音楽と記憶』は、音楽の聴取の認知の仕組みを書いた本なのだけれど、認知心理学および認知に関する脳科学の枠組みをきちんと説明しながら、そのなかで音楽の聴取はどこの器官が使われるのか、それらはそれぞれどういう役割をもち、どう機能するか、脳全体として俯瞰的に見れば音楽はどういうふうに処理されるか、自分のような素人にも平易にわかるように記述されている。

記述の仕方も構造的になっていて、認知科学の枠組み、そしてそのなかにある部品(たとえば長期記憶、短期記憶、海馬、ボトムアップ、トップダウンなど)についても項をきちんととって、枠組みのなかの位置づけとともに機能を紹介するというオブジェクト的な本となっている。そのため、素人があとで自身でいろいろ組み立てて考えたりするのにも、非常にハンディ。その際に、書かれてあった部品の再利用がしやすいし、個々の部品のロジック、全体のロジックともに整然としているので、逆にその本自体を自分の頭で再検証できたりもする。

筆者のボブ・スナイダー氏はそんな有名ではない。「現在、シカゴ芸術専門学校の終身在職権を持つ作曲家、ビデオ芸術家として活躍している」と書かれているだけで、大学で音楽理論を学んだだけ。教授でもなければ博士ですらなさそうである。しかし、書かれた本は認知科学の入門書としてもきっちり読めてしまう。

一方、池谷氏は東京大学の准教授である。これらの本は、エッセイではある。しかし、すくなくともBLUE BACKSは脳科学の入門書でもあるべきだと思う。けれど、これらの本には全体の枠というのがない。書いてあるけど図だけで、図の説明がない。あっても細かすぎて、部分しか見えない。それぞれの相関がわからないのである。その状態で、いきなり部品の機能の説明に入っている。なので、読者はいったい自分がどこにいるのかわからない。

きちんと構造的に腑分けされていない。機能で腑分けされた状態でほっぽらかしてあるので、いわば部品の機能仕様書の寄せ集めになっていて、脳の全体構造やその中での海馬の役割というのがまとまって見えない。

機能単位なので、彼がそれらを組み合わせて導き出した結論も、果たして正しいんだか間違ってるんだかよくわからない。結論が読者からみるとぼんやりするのである。しかも、思考が若いので余計に全体の印象として練られてないように見える。

で、『対談集 存在の耐え難きサルサ』に戻る。

浅田彰氏が「アルチュセールが面白いことをいっている。科学者は最悪の哲学を選びがちである、と(笑)。細かい実験をやってて、そういうことではすごくハードな事実に触れているのに、それを大きなヴィジョンとして語りだすと、突然すごく恥ずかしい観念論になっちゃうことがあるわけ。」と。

ああ、あたってるわと。

蓮實重彦氏は、「表象能力が日本の化学者(これは科学者の誤植なんじゃねえか?)に決定的に欠けていますね。」なんてことを言ってて、「いくらいいことを考えついても、それにふさわしい、あるいはそれを超えた表象能力がともなわないと駄目なんです。研究というのはそこまでいかないと駄目だ、ということが日本の大学の研究者に欠けている。」と。

最初、この二人の村上龍との対談を読んだときは、なに言ってやがると。ガタリやドゥルーズなんて科学用語をまやかしで使うインチキ野郎だぜと。検証できない理論なぞ、仮説ですらない。そんなものをありがたがってる時点で入り口からダメだろうと。ただの理系コンプレックスなんじゃねえのかと。自分のことを差し置いてそんなふうに思ってたのだが、いや、合ってると。言ってることは正しいと。

表象手段は蓮實氏の言うように哲学的だったりする必要まではないと個人的には思うが(それをやったら科学から逸脱する。検証できないものは科学ではない)、すくなくとも、龍氏が言うとおり、「生物学やそれを解説する本とかだと、アメリカのものがやっぱり圧倒的にいいんですよね、日本の入門書というのは全然どうしようもなくて。」というのは、ほんとにそうだと。

まあそんな次第で、サルサ、もう一度読み直してみたら、村上龍というのはすごい狂言回しをしているなあと。彼のひどい自己満足の本だとおもってたのだけれど、いやいや、それだけではない。読者にとっては違うと。

たしかに書かれている内容は、対話者が彼の友達だったりすることから、彼に好意的だし、自分が好意をもてないものには文句ばっかり言ってて自己満足本のようにみえるが、彼がどういう(無)能力をもって狂言まわしをしているのかは、彼自身は多分わかってないんじゃないか。「カンブリア宮殿」も実はそうなのだと今気がついた。まあ、そういう(無)能力なところが好きなのだけれど。実は人のいいおっちゃんだし。

名狂言まわしって、いろいろなタイプがあるんだろうけど、愛すべきそういう感じ人も一つのタイプなのかも。

しかし、すげえ上から目線のブログ。何様って感じ。まあ、いいや。あと、読み直したらやっとわかってきた。蓮實氏も浅田氏もすげーわ。そうかそういうことだったのか。目がコンプレックスかなにかわからんが曇ってたんやね。やれやれ。

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