心と体

2008年10月21日 (火)

雑記 頭のよさ

頭の回転が速いこと、頭がよいこと。

それらは別であるということを聞く。それらを経験的に知っているから、皆そういうことを口にするのだけれど。

経験則から出た多くの人の判断というのは当てに出来る。結局はそれが先に来て、科学も哲学もそれらの経験則の後追いだったりする。

もっとも、経験則はいろんな誤謬は含むのだが、経験則を解釈する際に、フレームワークを持っているか否かでなにがしかは違うようだ。哲学なんてそれぞれの哲学者がどう自分独自のフレームワークを作るかってなてもんだし。それが合っているかどうかはともかく。。おいといて。

頭の回転が速いことと頭が良いことの処理システムはどうやら違う。

短期記憶と長期記憶の入力方法と出力方法、それぞれのシステムがあってそれぞれの能力に長けている人がいるのかもしれない。

CPUとメモリとハードディスクがコンピューターの3種の神器なのだが、構造的には同様のシステムを考えることからはじめると、いろんなことが把握しやすくなるかもしれない。

短期記憶をメモリと比較してみる。

メモリの構造としては、キャッシュとバッファーに対応するものがあるだろうか。

機能としては、どうだろうか。そんなふうに構造化していくといろんな相似が見えてくる。

入力バッファは、それぞれの感覚器官で1つずつと考えたほうがよさげ。バッファーに入ってくる情報の処理はエコー処理なんかを含めてひとつの処理クラスターとして考える。

直感的な、勘のようなスピードが要求される処理とある程度の処理時間を必要とする処理、その2系統があるように思える。

反射処理、条件反射処理などたぶんいくつかの処理系統がある。反射処理、条件反射処理は、より脊髄や末端神経に近い下部組織の処理だろう。

頭の回転が速いと思わせるのは、そういうとこよりむしろ直感的に判断しながら、しかも柔軟に状況に対処する処理なので、もうすこし高度な処理が瞬時になされる必要がある。

さてその場合、入力された情報に対しなんらかのアクションをおこすためには、入力情報と長期記憶との照合処理をする必要がある筈である。

入力された情報というのは、バッファー長で処理される。そのバッファーデータの処理方式はどういうものになっているだろう。

また、比較される長期記憶は、圧縮された情報であると考えるほうが自然である。あるいは、なんらかのインデックスがついているとかも考えられる。飛躍して考えれば、扁桃体と海馬の関係から、そのインデックスは嫌悪だったり好意だったりの感情が付加されていたほうが体は反応しやすい。抽象的なデータは、すぐには処理しにくいものである。そのインデックスはなにかイメージのようなものなのかもしれない。体の感覚と頭をつなぐようなモノとしては、そう考えるほうが自然である。

一方、頭の良さはどうだろう。

頭が良い人の定義としては、以下のようなものがあると前に書いた。すなわち、

|

2008年8月26日 (火)

身体感覚の拡張 - 時間 -

池谷祐二氏の言葉

人間の身体感覚は普段は身体で固定されていますが、乗り物に乗ったり、道具を使うとすぐに拡張します。特に筆記具のように先のとがったものを持つと、普段は指先にあるアテンション(注意力)が体を離れて道具の先端部分に集まります。

この身体感覚の拡張について、トレーニングすれば、かなりのことができるようになる。たとえば、車の船積み作業をする人の車幅感覚とか。道具を使う作業で一流といわれる人はその道具をまったく身体の一部にしてしまっているようだ。

なんらかの作業トレーニングをする場合、時間をきって行うということをする。学生時代には、結構あたりまえのようにやって来ているのだけれど、大学くらいからそれも怪しくなり、社会人になると結構時間の観念が茫洋としてくる。

なんらかの目標をもって作業をする場合、自身で時間を切るという意識が必要になってくる。高校生くらいまでは、環境がそれを手伝ってくれるのだけれど、大学受験というのが終わると知らないうちにそういう海原へと放り出される。

とりあえず、長期スパンでの目標というものはここでは置いておいて、

①時間の感覚をどこまで伸ばせるのか

②時間の感覚をどこまで明確に持てるのか

の二点は、作業トレーニングとして自分のすべての行動を捉えた場合、重要になってくる。この時間感覚というのが、身体感覚としてイメージできるようになると、かなりいろんなことを身につけれるようになる。

ただ、作業ごとに自分の中の時間間隔はまばらだから、どうしても複合的な作業をする場合、足し算、引き算して予定を組むのだが、そういうふうに作業時間を考えなくてはいけないものは、すでに作業トレーニングの範囲の埒外にある。

そういうのもあって、作業トレーニングとしては、①はすこしスコープからずれてくるのか。

作業トレーニングとして成り立つのは、比較的単一な反復的な動作を伴う作業だったり、作業イメージが明確に持てる作業に限定される作業である。

そういう作業の範囲でいかに時間の感覚を明確に持てるのかが作業を行う上で重要なイメージで、トレーニングすれば、時間も身体感覚としてイメージできるようになる。

つまり、訓練すれば、それを感知する人間の感覚器官がないと思われる、時間にまで身体の感覚の拡張の範囲は及ぶような気がする。

前田日明にいさんは、「プロは人が気付かないような義務まで自分で作り上げてやってく ことで認められてる世界だから、自分が何をすべきかっていうのが大事だよね。」と言っ ていたのだけれど、その義務っていうのを、なにかに対する制限とかに置き換えてみれば、プロって呼ばれる人はそれぞれそういうものを持って作業していく過程で、それぞれが制限と思っているものに対してまで、身体能力を拡張していった人々だと。

裏を返せば、なにかを明確に規定することで、それに対する感覚を研ぎ澄ましていくことがプロとしての条件で、身体感覚の拡張なんてそれこそいろんな範囲にまで及ぶような。

そんなことを考えていると、思っているより身体の能力なんて無限だったりするようにも思えてくる。

|

2008年8月18日 (月)

意識的なトレーニングでしか身体もこころも変えられない

クロールでキャッチ、プル、プッシュ、リカバリ、それぞれで使う筋肉を意識するのとしないのでは、練習結果はおのずと違ってくる。漫然と泳いでいると何も変わらないし、何も得られない。身体を動かすことにおいてそれは何にでも言えると思う。

この数日間、プッシュの意識をするようにして1本づつのタイムを切って100mを1'30秒以内に入るというのを6本、メニューの中に入れてみた。それだけで、精神的にかなり疲労するし、実際に練習終了時の体重の落ち具合も少なからず違う。

それはともかく、練習後、二の腕の筋肉が張る感じ。その部分が少し太くなっているように感じる。今日、男子1500mフリーを見ていて、優勝したメルーリの腕をみて、なんじゃこりゃと思ったのだけれど、どういうことを意識すれば、どの筋肉が太くなるかというのは、自身の身体を実際に使わないと絶対にわからない。

感覚的にわかるのと、頭でわかるのでは「わかる」と「わからない」くらいの差がある。

フィジカルな面を鍛えるとそういう意味で意識や感覚で憶える知識というのも変わってくる。

メンタル的に落ち込んだときや欝になっているときに、無理やり身体を動かして運動すると、運動前と運動後で、ぜんぜんココロも軽くなるのだけれど、身体自身が変わってくる、たとえば運動して体重が5kgとか10kgとか落ちるレベルまでトレーニングすると、そういうメンタルバランスというレベルでなくて、身体のパフォーマンスがぜんぜん異なってくるので、アウトプットとして出てくる行動や運動能力も異なるし、内面の意識なんていうのも自分が思っている以上に異なって来る。

こういうのは自分はわからなくて、ほかの人が見る印象が別人に見えるというのに表されるように劇的に変わってくる。他人はアウトプットでしか評価しないし、そういう外に出る変化というものが本当の意味での変化である。

メンタルな部分や意識を自身で変えることは結構難しい。物事に出会うタイミング勝負のようなところがあって、ある意味運次第なところもある。それこそ、ゆらいだ意識がものごとに出会うタイミングを待つ的なところがあるのだけれど、身体を変えることというのは以外と簡単で、そうやって能動的に意識を変えることは、タイミング待ちの人生よりよっぽどポジティブな方法だ。

余談だが、よく三島由紀夫がボディビルで弱い内面を覆おうとしたとか識者は書いたりしているのだけれど、実際に身体をあそこまで変えると意識も相当変わっている筈。運動しない文人が頭だけでわかると思っている範囲というのは、以外と狭い。そんな風に思う。

人が自分を判断するのは、アウトプットからのみであって、良い文学作品や映画や芸術、また自身に影響を与えてくれるような人に出会ってアウトプットレベルまで変わるというのは、なかなかない。そういうのは運次第で、他人が外から見たアウトプットが持続的に変化しているというふうに見えるようなそんな衝撃に出会うことはなかなかないのだけれど、トレーニングすることで意識の体質自身を変えられるし、そうすれば、そういう意識を変えるモノに出会えるタイミングも増える。仕事も多分同じ。

もちろん、ただ単に習慣的に運動してるだけでは意味はなくて、筋肉を運動をイメージしながらタイムを切って運動をするということをしていかないと、身体は変わらない。仕事もただ単に習慣的に仕事しているだけでは意味はなくて、完成をイメージしながらタイムを切って仕事をするということをしていかないと、他人から見た自分というものはいつまでたっても変わっていかないし、他人は目を見張るほど体質が変わるということはない。

言っておくが、これは言葉でいうほど簡単ではなくて、かなりシンドイ。一本ごとにうんざりしてくるほどしんどいと思うことを続けられないと、人がそうとわかるまでは変われない。

|

2008年8月 6日 (水)

オカルトの泉

ユング心理学は、<心の現象学>である。

すべての人の心の現象を現象として存在することとして受け入れることから始まっている。

そういう学問なので、心霊的現象や幽霊体験なども、心の現象として存在するものとして考察をする。脳科学なども、おそかれはやかれそういう現象の原因を脳の生理学的観点から解明にかかるだろうが、池谷氏の本などを読んでいると、このあたりの怪しげなモノに対して脳科学が提示できるであろう仮説というのは、心理学的にみても、あるいはユングやその他多くの人が実際に出会った人々の症例からみても、現状では全体性を欠き、それゆえ局所的には当てはまるが、総合的に見るといびつで合理的に納得できるような全体像を欠いていると言われても仕方のない不完全なものとなるように見受けられる。

ユングの『オカルトの心理学 Psychology of the Occult』は、その本の題名から、かなり誤解を受けているのだけれど、内容を読むとかなり控えめな、科学書と呼んでも差し支えはないような本であるように思う。

少なくとも、これまでの科学が犯してきた誤謬や仮説の誤りがもたらした実害を鑑みた場合、より無害な仮説であるように個人的には思う。

ここでは霊を、心の中にある自律的複合体の投影によってあらわれるものとしている。霊は心理学的な立場から見ると、自我との直接の結びつきを持たない無意識の自律的複合体が、自我との結びつきを持たないゆえに投射体として現れたものとしている。

ただユングの本は非常に難解で、こんな風にある部分を抜き出そうとすると必ずある程度の誇張や欠落を覚悟しなければならない。したがって、本来の彼の考えについては、実際の本にあたって確認して頂きたい。

上の文からすると、霊の正体はその自律的複合体によって生じる幻影、幻聴であると読んでしまいそうになるが、注釈には「これを形而上学的陳述であると誤解してはならない。霊がそれら自体で存在するかどうかの問題はまだまだ解決されていないのである。心理学は「それら自体」で存在するものに関係するのではなくて、人間がそれらについてどう考えるかにのみ関係する」としている。

普通の科学書なら、存在すると証明されたもの以外は注意深く記述を避けるのであるが、心の現象として少なくとも存在するものを扱うという関係でこんな風な記述になっている。そこが科学としての心理学を目指そうとする主流派と袂を分かつ原因ともなっているのであるが。。

また、ユング心理学理論は<現象としてあらわれる心>を独自に理論化しているので、その正当性に疑念をもたれることはたしかで、自律的複合体とか普遍的無意識とか、かなり「跳んだ」理論なのだけれど、心を現象としてとらえた場合には、かなり合理性を持つように読める。そういう「跳んだ」部分を含んでいるのだけど、仮説として読む限り、総合的に納得できるようなものとなっているように自分は思う。

少なくとも、「霊現象は存在しない」ということで記述をさけるという判断や、脳のゆらぎに関してうんぬんという中途半端な理論よりは納得できるのだけれど、なかなかこれも受け入れられないのだよなあ、残念なことに。

異端というのはまったく違ったものではなくて、似て非なるものに対して貼り付けられるレッテルで、注意深くみれば、そちらのほうにより納得のできる真実が含まれてたりするのは、世のあらゆることと同じだったりする。

|

2008年7月21日 (月)

表象能力がカギ

池谷裕二氏の『PRESIDENT』の記事でもうひとつ気になったのが、以下の文。

人間の身体感覚は普段は身体で固定されていますが、乗り物に乗ったり、道具を使うとすぐに拡張します。特に筆記具のように先のとがったものを持つと、普段は指先にあるアテンション(注意力)が体を離れて道具の先端部分に集まります。

この話を、狭いところを通るときに車の運転が慎重になるとか、熊手で少し遠くのものを掻きとろうとするとき、熊手の先端になにかが触れたときに自分の手が触れたように反応するとかそういう話を例にして説明されている。

実際にはどういう仕組みでっていうところまでは解明はされていないのだろうけれど、こういうことまでは共通認識として研究課題になるまでに至っている。

なにかを表現する場合に、状況をどういうふうに表象するかというのは、それをどう分析していくかというのに繋がって来る。そういう意味で表象能力というのはひじょうに大事だと思う。ツーカーというのは、その「表象する」という能力を磨かせないという一面をもっている。まあ、どんな分野でも、最先端は直観で動くので、表象能力というのはそこまで大事かというとそうではなくて、一般化して工業化、大量生産化するのに必要なレベルの技術なのだろうけれど。。

ただ、私のような凡人同士だと表象能力のなさは致命的だ。協力してものごとを前に進めることができなくなるからである。

生命の奇跡とか喜びと感動とか、ああいう番組の中で使われている言葉というのは安直な言葉で、分解能がないから、そういう言葉の『信(信仰)』の領域での力を認めるのにやぶさかではないが、ビジネスや現実世界では『使えない』。この文の最初の身体感覚の拡張についても、『人間の超能力』だのと言っているうちは、おバカさんでどっかでそういう人は大きく躓く。勝手に躓きやがれ。

自分は表象能力を磨くほうで勝負していこう。

|

脳の不思議

IKEGAYA YUJI。目にしたのは2007 6.4号の『PRESIDENT』である。

書かれた内容は、人様の文だけれど、興味のあるかたはここを参照。

http://ebooknews.blog108.fc2.com/blog-entry-28.html

IKEGAYA YUJI氏、2002~5年コロンビア大学客員研究員との肩書きだった。漢字を知るために名前を検索してみたら、やはりホームページがあった。東京大学大学院・薬学系研究科・准教授となっている。まあ、そういう感じだろうとおもう。出るべき頭はしかるべくして出る。

驚いたのは2002年にすでに『海馬─脳は疲れない』という本が出ていて、糸井さんと共著になっていたところだった。やはり、糸井重里、ただものではない。ほぼ日にも『海馬』コーナーがあるらしい。なんちゅう、鼻の効き方なのか。コピーライターというジャンルの人ではなくて、やはり糸井重里というジャンルの人なのであろう。

『海馬』というのはここ何年かの脳科学の主要研究題材である。記憶のメカニズムにも、いわゆるメタ記憶にも、空間認識にも関連している古い脳内器官である(リンク 池谷裕二氏の「海馬の基礎知識」

いちおう言っておくと、『ほぼ日』の中身は糸井さんとの対談なんで、話があっち飛び、こっち飛びしてて、海馬研究の全体像がわからないと思う。でも、こういうスタイルは、日本人にはあっているようなそんな気もしないでもない。別に日本人じゃなくても合うのかもしれないけれど。。

これは忙しい研究者によくありがちだけれど、自己の研究分野については論文を書いている時間はあるけれど、自分の研究分野の周りを含めた全体像を一般読者にわかるように入門書を書ける人というのはなかなかいない。時間的な制限なのか、蓮實重彦が言っているような「日本人の理系の人達に欠けている表象能力」のせいなのかはわからない。

いちおう言っておくと、東大出版会の『認知心理学』。本屋で立ち読みした程度だが、人文系の心理学者の文は「ものごとを分解する能」がなさすぎて理系の人間が読むのに耐えないし、理系の神経学者の文は専門的すぎて全体像が見えない。読んで苦笑してしまった。どっちもどっちだろうと。

逆にそれで、蓮實氏と村上龍が言っていたことがよーくわかった。なるほど、そういうことかと。『存在の耐えがたきサルサ』対談集読んで、なんだか腹立ってたので、逆にそういう観点で反証する物事を探したりできたのだが。。

池谷裕二氏、この『PRESIDENT』の記事の中で、

「脳によって体がコントロールされている」というのは大きな思い違いで、現実は逆です。体が脳を支配しているのです。…。よく人類の未来像で、脳だけが異常に発達して大きくなり、体が退化したSFチックな漫画を見かけますが、そんな未来は絶対に訪れないでしょう」

と言っていて、これは「身体から革命を起こす」という甲野 善紀, 田中 聡著の本(あ、もう新潮から文庫で出てるんだ)とつながってきてすごく納得できた。

まあ、身体の神経からの情報伝達についても、実はまだよくわかってないので、現時点で身体モデルを作ってその巨大化脳につなげても…とかいろいろ考えるべきことはあるのだと思うのだけれど、言ってることはすごくよくわかった。

ところで、さっきの怒りの感情が指向をもって情報を選択させるとかそういうところはどこが司っているのだろう。

あと、池谷氏が海馬じゃなく別の研究テーマを選んでいたら、時流には乗れなかっただろうし、したがって、まさに今、東大の准教授にはなってたりはしてなかったろう。実は、そういった『運』をつかむというのも…。

脳科学への興味はつきない。

|

2008年7月19日 (土)

楽しさは主体性の問題

楽しいか楽しくないかは主体性をもって事に望んでいるかどうかにかかっている。

あたりまえのことだけれど、依存症のケがある場合それを見失いがち。

流されている場合、やらされている感がある場合、主体性が持ててない状況は数々あるが、そういうときには

①自分が主体性を持てていないことにまず気づくこと。

②周りも、自分についても、よく観察すること。情報はモノを明確にする。

③なにを目的とするか、最重要なことだけを見つけてそれに邁進すること。

ただそれだけ。

ジョン・レノンのオノ・ヨーコとの出会いは、ジョンがロンドンのギャラリーのオノヨーコの個展で

「はしごを上に昇ったあとに天井に吊り下げられた虫眼鏡で天井をみると、小さく書かれた『YES』の文字が読める」

という作品に出会ったときだったという。主体性というのは、そういうものだと強く思う。

しかし、この作品といい、エピソードといい、すごくカッコいい。

横浜トリエンナーレでオノ・ヨーコが再び展示をするのだけれど、前回みたく反戦とか彼女の理性とやらが発するメッセージではなくて、この作品みたいな彼女自身の生き様が展示されているとよいのになあ。

オノ・ヨーコは、人間的に好きになれないのだけれど、『嫌い』という感情は『好き』という感情と同じかそれ以上に大事で、そこには必ず自分にとって大切ななにかが隠されている。そんなふうにも思う。

|

2008年4月 9日 (水)

カリスマ性

カリスマ性というのは、自分の中にあるタナトスを呼び起こしてくれる人に対して感じるものかもしれない。

自分を破壊してくれる人、経験や考え方や生き方を破壊して再生されるべき方向を体現してくれる人。

美、知、力、人間力、総合的に自分の限界を超えている、もしくは自分がもっとも自信がある部分でそれを凌駕している人。

それらが嫉妬や妬みや、自己保存本能というものを超えるのは、『運命を託す衣装』をその人がまとっているからだ。

フロイトとラカン。タナトスと鏡像段階の理論というのは、カリスマとか、いわゆる生と性の香りがする、こういうものによく沿う。

あながち、彼らを否定することはできない。現在の正統派心理学の限界というのはそういうところにある。科学ではない。臨床で、科学が「使えない」のであれば、方法論は別に構築すればよい。実証不可能な理論は仮想にしか過ぎないのであれば、それを求めるのは茶番でしかない。

| | コメント (0)

2007年11月12日 (月)

もとい。。

言葉が「ものを分節する」際に、心的エネルギーが呪縛を行使し始めるのではない。
心的エネルギーは、経験と感覚・感情の積み重ねによって生じるものである。本能的なものもある。それらと経験が強固に結びついたものもある。
いずれにせよ、本人の、その「もの」に対する歴史に比例するもので、言葉の発生とは関係はなかろう。
歴史や感動を同じうし、共感を引き起こすところに詩や俳句の本当の妙があるのであって、それはその人の因果とか縁とかいうものなんじゃねえかなあ。
言葉自体は、そのものの成立に意識・無意識が働いているにしろ、人によって使われるときには、作り手と受け手の感情はどうあれ、伝達という手段のうちでは、やはり記号としての意味合いが強いし、言葉自身にはエネルギーはないような。ITとかユビキタスとか、その人が知らない言葉を知るときの自分の心の動きを思い出せばわかる話で、ものを分節するものというよりは、最初は記号として自分の目の前に登場してから、いろいろその言葉に出会うにつれて、関係性が出てくるのであって、分節でエネルギーが発動してどーたらつうのはねえんじゃねえか。送り手と受け手の間の関係についても、クオリアを考えればわかる話で、人の「赤」と自分の「赤」は違うんだから、エネルギーっていう観点からすると、まあ触媒みたいな働きをするものというほうが合っているような気がする。

子供の時に、詩や俳句を教科書で読ませられても、なんだかくだらねえし、どこがいいのかわからない。私はそう思ったし、そういうコが大半じゃないのだろうか。
それを味わうための人生というものはどうしても必要で、山頭火を中学生に読ませてもほんとにわかってるのかは疑問だ。
だが、子供達は、なにかを確かに感じていることはある。3歳くらいの子供と生活していると、そういう感得能力がすでに備わっているのが見て取れることが多々ある。
なかなか、あなどれないのだが、それをアラヤ識と結び付けられても、なんだか納得はできないのだよなあ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年11月 7日 (水)

音と言葉、脳の働き、迷信

音に出して読まれることによって立ち上がってくる文章がある。

宮沢賢治の童話は、そんな文章である。
読んでみると気づくが、擬態語や擬声語、それもまったくその情景にすっぽりあてはまるような、それしかないような語を使っている。
が、それらの語を、最初読んだときには、なにか違和感がある。現代と彼が生きた時代背景の違いだろうか。背景といっても、具体的なものだ。たとえば、電線のたわみ具合とか路地の水溜りとか、そういう生活そのものの違い、生きるリズムの違い。

ある時代を思い浮かべるのは確かである。それを思い浮かべられる物語の射程範囲というものもある。あるが、それはとりあえず置いておいても、賢治が生きた生活を私は実際には知らない。知らないから、その違和感に、生活の差分を見るのだろうか。
彼が生きた時代の生活を、その差分に思い浮かべる。

いや、おそらくそうではない。彼の擬態語や擬声語は、その時代でもなにかの違和感はあったはず。例えば、にわとりはコケコッコーとなき、人はトボトボと家路に着く。
そういう典型的な語は使っていない。発明している。彼の文脈の中で、その発明は生きる。
相乗効果で、生き生きとその光景が立ち上がってくる。私の文脈で立ち上がるのではなく彼の文脈で光景が立ち上がってくる。その光景は、私の思い描いたものとはあきらかに異なる。彼の光景が立ち上がるのである。陰影をもつ光の景色だ。具体的な実在を持ってもいるようにも思える
おそらく、そういう光景は、彼が意図したものだろう。

だろうが、まったくのところ、擬態語や擬声語にそんな力があるとは。。

音やある種の状態に定着させられた語と、それにより引き出される光景。
実在があって、その後で名がつけられたものではないこういう擬態語や擬声語は、成立過程そのものが言葉とは異なる。直観的につかまれた生の実在。

そういうものは、音との相性がよい。音もしくはリズム、抑揚。
俳句や短歌、ある種の詩などは、逆にその5・7・5の文体のリズム、音韻で、言葉が内在的にもつ生の実在を想起させる。あるいは言葉が示す生の実在を我々に想起させる。

四を死と読み替えたり、するめをあたりめと読み替えたり。日本人は話し言葉の音(おん)に敏感である。文脈で現される内容や漢字自体よりも。

音を聴くときに使う脳が、日本人はほかの人種と違うとか。
虫の音も日本人のみが「左脳」で感じるようで。で、何故日本人は、虫の声を言語野である「左脳」で感じるのか。 角田忠信さんの『右脳と左脳』という本には、これは日本人が虫の音を擬音や擬態語に変換して聞いているからかもしれないと書かれているそうである。
風の音とかも。この本は、宵まちさんのブログで知って、音に関する脳の働きについての上の文章はその文の受け売りなのだけれど。結構、おもしろそうな本である。日本人のみが母音を「左脳」で感じるとか、正常型聴覚での低音の優位性の、あるヘルツの純音に限っての逆転の話とそれにともなう人体に組み込まれたメカニズムの違いだとか。
また、買いに行こう。

一方、ものの形とか光はどうなのであろう。西洋の人と日本人が、ものの形を判断するさいに使う脳はどうなのだろう。
西洋人といってもどの民族を指すのかっていうのはあるのだが、象徴的な印や光景、たとえば、雲間から差し込む光を不吉なものと見るとかいう感覚は日本人にはあまりないような気がする。
迷信や妄念にさらされやすいのが、視覚から入ったイメージなのか、聴覚から入った言葉なのかっていうことを考えるとなんだかちょっとおもしろい話である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月 3日 (火)

一生大自在

甲野善紀氏の松聲館道場にかかっている掛け軸にはそう書かれている。
自在であること。執着や居付きというものから離れて自由であること。果たして自分が何者であるかということから離れて、自由になることは可能であるのか。

白と黒、善と悪、美と醜、二元論的な考え自体が自在であるということから離れているが、果たしてこれらの区別を持たずに自在であることの優位性を語ることは不可能であるように思う。すなわち、なんらかの基準となるものが己の中にある筈である。

生きるうえでのエネルギーの肯定や、死や病の否定という価値観、生き方というものがある。ゲンを担ぐ、穢れを嫌う、スポーツ選手や生命力の強い野性的な連中が身にまとっている、もしくはそれらから逃れられない価値観。神や神社が持つ価値観。
あるいは、執着、あるいは美。なにものにも犯されえないものの賛美。

生きていくうえで必要なエネルギーはそれらの執着から生まれてくるように思う。それらを否定することは生そのものを否定することになる。
ただ、執着から離れない限りは本来の生は得られない。では、なにを心の中心に据えようか。

美しいものを美しいと思う心。醜いものを醜いと思う心。それらの基準から離れて自在であろうとすること。生きとし生けるもののすべてのかたちの肯定、いのちの肯定。
いのちの肯定、しかし、それらの肯定に揺らぎつつ、揺らがない。揺るがない。それが自在であることだと思う。自ずから在るということ。自らはあるのである。

自らの中に仏性は必ずあると信じている。それを信じたい。そしてそれを形にしよう。青山氏の言うように。魂というものがあるならばそれはかたちに出る筈なのだと。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月30日 (水)

タイプ論の考察(そのⅠ)

感覚、感情、直観、思考。
タイプ論(※1)では、これらをタイプの基本要素(実際は心理機能)として定義している。

そのそれぞれは、意識-無意識の深さレベルを考えた場合、それぞれの発生位置が異なっているように思える。

また、そのそれぞれは、なんらかのそれらを発生させるもの、もしくは、処理する軸となるものと結びついているように思う。
感覚は五感と、感情はアフェクトと、そして思考は言葉と。直観は何と結びついているのだろうか。

直観はイメージと結びついている。

経験的、統合的に、目の前の事象から、可能性、もしくはそこに付随する発想を受け取るというのが直観と言われる。
数学のテスト問題で、論理は見えないが答えがわかるというようなものも直観と言われる。第六感と言われるもの。

直観は、可能性を受け取る。可能性は、間違っていることもある。
経験的、統合的な処理判断。処理論理がブラックボックス化してるので見えないだけで、脳の働き的には、脳梁を軸とした右脳、左脳半球の等価的な使用による像の結実であろうか。思考とは脳の働き方のメカニズムが違うだけ。また、やはり感情や感覚とは軸を異にする。

感覚-感情は、それを発生させるものでの分類、思考-直観は、処理方法による分類。

(ユングは、思考-感情を合理化機能、感覚-直観を非合理化機能と呼んで、この2つを軸とし、思考と感情、感覚と直観を対立する機能としている。)

感覚、感情、直観、思考。
これらは、意識-無意識の深さレベルではなく、意識-無意識内での垂直的な総合的処理判断モデルであり、処理系列もしくは処理エネルギーのベクトルが違う。

感情、思考、感覚、直観は、対立する処理機能ではなく、別系統で存在する。個人個人は、それぞれの系統の処理論理を持ち、そのそれぞれの処理力が異なる。また、場面場面でなにかを判断する際にメインで使用される処理系統には個人差がある。
系統の能力差については、ユングの言うように思考が強ければ、感情が弱く、直観が強ければ、感覚が弱いという統計があるのかもしれない。統計であって、個人差はある。そういう風に考えたほうがいいのかもしれない。

本来は、クオリアについて考えたほうがいいのかも。
クオリアについては、さらにまだ考えがまとまっていない。

※1 ユングのタイプ論は、以下のサイトの内容が初心者にはわかりやすく書かれている。
http://starpalatinatheworld.hp.infoseek.co.jp/kouza/02.html
本来はみすず書房の「タイプ論」02197 を読むべきなのだろうが、ユングその人自身が持つ難解な部分がある。
ユングのタイプ論のミソは、「人は主機能を頼りにし、補助機能の助けを借りて、劣等機能を徐々に鍛えていく。それが『個性化の過程』である。欠けた部分を補い、円を描くように、全体性を得る。そういう風に人格を発展させ、人は成長する」ということだと思う。これにより、タイプ論が、上に記述したように経験的にはどこか不完全に見えるようなところを帳消しにしているのかもと思ったりもする。
尚、ユング自身は、内向的直観タイプだといわれている。上述したように直観は可能性を視る。あたるも八卦、あたらぬも八卦。

松岡正剛さんが千夜千冊のカール・グスタフ・ユング『心理学と錬金術』ⅠⅡにユング自身の評価を書かれているが、この内容が私が読んだユング論の中で、最もわかりやすい。中立的でありながらも正道的で、かつ個性的に深くユングを捕らえられている。批判しながらも愛情を持って書かれていて非常に面白い。ついでに言えば、同じく千夜千冊の中で、ユング派の領袖、河合さんの評価も書かれているが、やはりそういう批判と愛情を持って書かれていたりもして、これも微笑ましい(といっては失礼なのだが)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月29日 (火)

暗黙知

スポーツ選手や舞踏家など、一流の人たちは、技術、体裁き、訓練方法、身体の感覚、意識の制御などをそれぞれの人が持っている筈である。だが、直接、それらの人から、そのそれぞれの人たちのそれらを言語化したものを聞くことは少ない。

これらの人々、とくに日本人は自己の技術や感覚を言語化できる人が少ない。甲野善紀さんなどは特殊な例だと思う。
不特定多数の方に技術を教える必要のある人で、なおかつ自分で会得したものを常に自分のなかに溜めて置こうという意識のある方だけだと考える。

なにも、スポーツに限ったことではなく、身体を使って仕事をする方はたくさんいて職人さんとかもそうである。
が、このような方達は、言語化するのが苦手なように思える。

よく野球解説者がスランプのときの選手の動きをいいときのそれと比較して、あーだこーだ言っているが、ビデオなどで見れるのは身体の動きだけであって、せいぜい出来ても予備動作まで言及できる程度。
そのような言葉は、身体には直接落ちることはないし、身体に落とし込めない。

体操選手のアンドレアノフが、「胸で回る」ってことを言っている。
実は、聴きたいのはそういう芯の言葉であるが、なかなかそういう言葉をもった名人はいない。

「西洋的自我は言葉でできていて、西洋人に言わせると言語化できないものは贋物ということになるんです」河合さんの言葉である。日本人のシステムは非常に学習しにくいシステムになっていて、僕ら日本人は子供の頃から言語的になにも訓練されていないのに微妙なサインを非言語的に学習しているからわかるけれど、外国の人にそれはわからないということもおっしゃっておられる。

言語化することによって、伝えられることというのは日本人が思っているより多いと思う。
トヨタでいう暗黙知っていうのはある。あるが、しかしそれすら言語化できるのではないか。
暗黙知は、人から人への非言語的な伝達学習でのみ伝播できるが、言語化することによりその伝播範囲を拡げられる。

言語化の目的は暗黙知の伝播範囲の拡大だけではない。

自分自身のなかでも、前できていたことが今出来なくなってしまったことがある。前述のスランプのように。
これを取り戻す一つの方法は、前できていた状態になるまでひたすら持続して訓練することである。それにより忘れていた感覚を取り戻すことができる。が、これでは時間がかかってしょうがない。身体の状態など物理的に時間と労力によってしか戻らないものはどうしても存在するが、勘所というものは、言語化しておくことにより、それらを取り戻す時間は少なくなると思う。

この言語化、ビデオで見た動作の解説ではない。
映像ではない。映像は、感覚を呼び起こせない。だから映像を言語化しても意味がない。
身体の感覚を言語化する必要がある。身体の感覚をイメージ化した言葉。
そのような言葉を使うことにより、身体にそれらを落とし込むことが出来る。

言語は強い。言葉はイメージを補足、補強する。
意識(言語)→イメージ→身体という順番で機能するのだが、イメージ→身体だけだと身体から抜けやすい。。
西洋人が言っていることは、あながち嘘ではない。彼らの自我が強いと河合さんが考えておられる程度に、このような言語化による技術や感覚の刷り込みは、ただのイメージだけ持っている状態よりも身体の中での持続力が強いのではないかと思う。

自分がイメージしやすい言葉を使う、見つける必要がある。論理的である必要はないが、論理に結びつけやすい言葉であるほうがよい。アンドレアノフの言葉のように。
論理に結びつけやすい言葉を発見することにより、自分の中だけでなく人と共有できる。なおかつそれは意識により補強されるので自分の中でも強い力も持つ。

トヨタの暗黙知っていう考え方をいつかひっくり返したい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月24日 (木)

メモ(未稿)

仕事をする上の資質として最も大切なことについて、ある外資系保険会社の支社長と酒の席で会話していた。やはり、仕事でもっとも大事なことは集中力だということで話が落ち着いた。

集中力は、子供の頃、誉められることで身につくという。誉められると子供は熱中する。確かにその通りだと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月21日 (土)

現代美術のコンポジション

2005年の横浜トリエンナーレに行った。現代美術、頭で考えて理解するものだと思っていたのでバカにしていたのであるが、NHKの日曜美術館で特集していて「どうも思ったものと違う」と出張先であまった時間を利用して行ってみた。

「現代美術、映像だけではわからない。時間・動き・空間・音・手触り。5感で感じるモノなんだもの。だから、絵画や彫刻みたいに、次世代には残らない。今、ここでしか、感じられないモノ。これが芸術?ってのも結構あった。」と当時の日記には書いている。

先日、草間彌生の作品(ピンクボート)を名古屋市美術館で見た。前から見ていて知っていたのだが改めて見直すと確かになにか引っかかる。なんだろうなあと考えていたが、どうも身体に直接作用するからだということに気付いた。

「心理学者ジュディス・ラングロワ(Judith Langlois)は、何百もの人間の顔のスライドを集め、次にそれらがどれだけ魅力的かを大人たちに評価してもらいました。それを次に3ヶ月と6ヶ月の乳児たちに見せました。すると興味深いことに、乳児たちも大人が魅力的だと思う顔をより長く、しかもずっと長く見つめたそうです。さらにそれらは、年齢・性別・人種は問題ないようだということも発見しました。赤ちゃんはとにかく最も魅力的な男性・女性・赤ちゃんをより長く見たそうです。写真に写っている人が黒人であるか、アジア人であるか、白人であるかに関係なくです。また、母親がどれだけ魅力的であるかや、自分がどの人種に属しているかとは無関係にです。」

ふむ。

『青山二郎全文集 [上] Photo (筑摩文庫)の「小林秀雄と三十年」に、小林秀雄が、ゴッホの麦畑に烏の大群が飛んでいる画の前でしばらく動けなかったことが彼の作品のなかに書かれているとの記述がある。

赤ちゃんは、ゴッホの烏には反応するのだろうか。数千万する茶碗と数百円で買える茶碗とを見せたら、どちらに長く眼を留めるだろうか。

赤ちゃんの眼が反応するもの、無意識のイメージを呼び起こさせられるもの、習慣から形式が発見されたもの(青山さんが「伝統と血の濃さが逆に個人の習慣を喰い食い尽くして仕舞う」と言われているもの)、もしくはただ頭で考えられたもの。

脊髄に眼と皮膚がくっついたような状態でもわかる美醜。無意識に訴えるゴッホの絵。伝統と血の濃さに自分の脳みそが喰らわれてしまうような湯呑。そのあたりまでが私にとっての美術で、それ以外は私には必要がない。
押し付けがましいイデオロギーが被せられたモノはいらないし、気持ちが悪い。そういう作品は、作者の心の治療にすらなっていないだろうと思う。意識が不快だ。

時間・動き・空間(囲まれ感?)・音・匂い・触感(もしくはそれを沸き立たせる色・光)。現代美術でのこれらの追求はまだ始まったばかりだと思う。時間?何に時間を感じたのだろう。これらについてはまた確かめなければならない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年4月 7日 (土)

物語

アフェクトと意識の間にイメージが存在する。『言葉』はアフェクトをイメージ化できる。イメージは指向性があるので、意識によって対応できる形にまで落ち着く。
精神分析の意味はそこで、アフェクトを意識で対応できるものにemerge(もしくは変容も含むのか)させることにある。腑に落ちることの意味はそれだ。「変容」、占いはその原理を利用している。占いを、卑劣だと認識する人がいるが、それは無意識にその変容を嗅ぎつけているからだと思う。変容のシステムは意識によって認知可能だ。だから、嗅ぎつけるというより実際に認識して糾弾してるのかもしれない。

「言語的に出来た自我というもの、これはすごい強いんです。」という意味の一部はそこにある。また、言葉というものの危険性もそこのある。トラップに満ちているが使わざるをえない。

先鋭化すること、逆にあいまいにして人にイメージを喚起させること。

あいまいにしてイメージを喚起させること、作家にはそのイメージはあるので、それをいかに読者に喚起させることを掴むことが書くことの極意のひとつだろうとおもう。方法論はいくつかある。ただ、方法論に固執し、言葉による先鋭化を目指した場合、効果は逆転してしまう。論理とは逆方向へひっぱらないと読者に影響は与えられない。意識化された文章が「オモロナイ」のはそのせいだ。キャラクター・ドリブンの小説がおもしろいのは、作家の無意識が関わってくるからで、そんなことはいわずもがなだ。

「オモロイ、オモロナイ」って河合さんが映画や書物について「こころの声を聴く」で言っているのは、論理化、意識化されるまでのそういうイメージを喚起させるもので、意識の変容を迫るものだ。当然、こちらの身体まで動き出しそうになったりもすれば、自分がそれまで正しいこと、変えたくないと無意識で守っていたことを変えさせられもする。本当に楽しいことは苦しみを伴うっていうのは確かだけれど、こちらの身体がおもわず動き出してしまうオモロイことっていうのもあるのは事実だ。
苦しみを伴わないやつのほうが個人的にはいいなあ。

ただ、最初に言った様な占い・まじないの文章のたぐいがある。私は、このあたりは、なにか読んでると気持ちが悪いので避けるのだが、本能で避けているのか意識でさけているのかはわからない。申し訳ないが、こういうのに女の人はひっかかりやすいように思う。一部に論理的なものを匂わせると特に。

綺麗なものには毒があるというが、毒があるから綺麗なので、棘のないバラだったら、この世でこんなにもてはやされることなどない。

こういう当たり前のことを言っても、意識化されているので全然「オモロク」ない。イメージ化すること、意識の下部方向へ引き下ろすこと。意識の下部方向は、下にいくほど多くの人とつながっているが、言語で到達できるのは上の方だ。下のほうは元型でその間に物語がある。

最近、どうも物語も昔のようなエディプスだの老賢人だのってのでは心が動かされないようになっているように思う。映画とかを見るとその印象が強い。科学技術や常識の変容は、意識の変容を促すが、それは今や物語レベルまで影響を与えているのではと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月 6日 (金)

人の尊厳

自尊心が損なわれたときに怒髪天をつく。

考えてみたが、それ以外で業を煮やしたことはない。集中してるときに邪魔されたり、事が上手くはかどらなくてイラつくことはあるが、煮えたぎるところまで行くのはそれしかないような気がする。

相手を怒らすのは、簡単で自尊心を傷つけてやればよい。相手の弱みをつくのが一番よい方法で、女の人は大体、男より本能的で、強い男を見つけないといけないので、ひとの弱みを見つけるのがもともと上手い。
強いところを根っこからへし折れる女の人にはまだ遭った事はない。そういう女の人に出会ったらやばいくらいに惚れるだろうと思う。

へし折ってくれる女の人にしか心は動かない。血まみれにならないと愛せないってのは損な性分だ。相手に対する尊敬とかは、その最たるもので、自分のプライドとのアンビバレンツはもうたまらない。秘密を持ってる女とかもそう。矛盾や無意識や直観を孕んでいる女の人とか。自分の中に潜むタナトスを目の前に見せつけられるとこまでいくとかなりやばい。

昔、シヴァ神は、女の神だと思っていた。たぶん、そういう理由で。いま、リンガを見てもやはりその印象はかわらない。何故かそう考えてしまう。女の人は逆なのだろうか。
エネルギーを保つために、決して射精する事のないシヴァ。ヒンズー教っていうのはそういう生の教えなのだろうか。ヒンズー教、至高の存在への信仰が基本であるならば、そのような気もする。そう考えると仏教がインドでは流行らないのはわかるような気がする。
怒髪天をついた状態で、決して破裂しない。悟りは本来そういうもので、だから菩薩行をしている我々の彼岸は56億7千万年後である。

インドで感じたのだが、底が浅いズルとかうそを目の前でつかれると思いのほか腹がたつ。そういうことが彼の地では日常茶飯事である。なかなか今の日本では体験できない。舐められてると思うからだと思ったのだが、どうも違う。相手に卑怯なまねをされると腹がたつことに気付いた。そういうときは怒髪天をつく。
正義感なんてものはくそくらえと思っているし、信念なんて高尚なものは持ち合わせていないので、それらが損なわれるわけではない。と思い込もうとしていた。「なんて卑劣な、なんて卑劣な、なんて卑劣な」。なにが損なわれるんだろうとずっと考えていたが、人の尊厳ということしか思いつかない。自尊心は、自己保存本能と直結しているから納得もいく。だが、人の尊厳っていうのは。

人の尊厳。怒髪天をついた状態でそそり立っている?

人の尊厳っていうのはそれほど本能に近いものなのだろうか。だとすると、人もなかなか捨てたもんじゃないのだが。

まだ、結論を出せずにいる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月25日 (日)

よっぱらい

すべての宗教家や信者たち、またその信仰に対する文学や映画や美術に没頭する人、賛辞を讃える人は、自分自身の信仰心に対する諧謔趣味に立脚していると思っていたのだが。。。どうやら違うらしい。
どうりで、文学部や社会学部が大学で学部として成り立っているわけである。子供はわからないのはしょうがないが、高校までの教育でからくりがわかるには充分でしょ。大学で遊びたいんなら、諧謔学部って名前でひっくるめてやればいいのに。まあ、でも遊べるね、このテーマは。遊べるから、商売がなりたっていて、それはそれで救済策としては、文系頭のこちらとしてはありがたいことです。神に感謝。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月14日 (水)

忙しい

こころを亡くすと書いて忙しいと言う。忙しいと心を亡くしてしまう、とよく聞くが、それは逆で、心が亡くなっている状態が忙しいのである。忙しいと思うかどうかはその人の主観でしかない。忙しいと思っている時点で精神的には負けである。忙しいと思う場合を振り返ってみると、なにかに執着している場合が多い。手順とか手段とか。
恐ろしく忙しそうな状態でも平然と仕事をこなしている人がいる。そういう人は、時間の使い方が上手いとかそういうロングレンジなことでなく、状況にふりまわされないで、常により本質的なことをみつけてそちらのほうに心を移動させるのが上手いように思う。

100mを長水路の試合で泳ぐと、折り返した後にいろいろ考えてしまうことがある。どこでスパートするかとか、それまで体が持つかとか、横の奴の位置とか。だいたい、そういうことを考えている場合、後半のタイムはひどい。
また、スタート前は興奮しないと前半のタイムはあがらない。心が落ち着いている場合は、後半うんぬんどころではなく、結果は最悪となる。
ほぼ無意識で最後まで集中できていると後半もタイムは落ちない。また、練習して体に動きを覚えこませることによってさらにタイムは縮む。前半も後半も。このあたりは訓練すれば上達する領域であるように思う。

「恐怖に勝てるのは興奮だけなんだよ」とトウジは言うが、興奮だけでは恐怖に勝てても勝負には負ける。

興奮も恐怖もコントロールできたら、人生の面白みがなくなる。それらは解き放った状態で、常に本質的なことを見つけてそちらへ心を移動する。体は無意識に動けるように訓練する。できたらスゴイね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月 6日 (火)

健全な精神は

格言っていうのは、まったく使えない。「注意1秒、ケガ一生」とかいうのと大差はない。要は言葉を発見した人の自慢である。肉がついてないので、自分で再発見しなければ意味がないし、自分で再発見したときには、もう意味はない。「ああ、そういうことか」と納得したら、偉そうな古人の自意識を拝見するのみ。

ただ、その言葉を常に唱えたり、意識を置いていると得心するタイミングが早くなることはあるのかもしれない。自分の苦手とする格言を常に考えていると、生来あった気質を変えることが出来る。プロセスの逆転である。須藤元気が言っていた。

だが、最終的には、得心しないと身にはつかないと思う。最終的に、直観して得心するレベルは人それぞれで、捕らえ方もひとによって違う。得心した人の得心の仕方を聞くと、肉がついているので結構わかりやすかったりする。言葉だけお題目のように唱えているヤツは気持ちが悪いので近付きたくはない。だいたい、そういうやつは話を聞いても浅くて使えない。

体と精神は、結びついている。体がひどく疲れているときは、食欲がでないし、女を見てもなにも感じない。そんなときの精神状態はけだし死に掛けで動物として使い物にならない。無理やり体に詰め込める意志があれば、体はなんとか受け付けてくれるものである。また、体を鍛えているとそういう疲れきって指ひとつ動かしたくない状況でも、なんとか無理やり体に詰め込む意志が出てくる。フィジカルな強さが意志に力を与えてくれるから。追い込めば追い込むほど、体は出来てくる。ひじょうに物理的である。当然、意識のほうも「もう、だめだ。もう、やめよう」と何度もなるが、その際、自分に集中すれば切り抜けられる。何度もそういうことをしていると、その集中できるタイミングが多くなるし長くなる。体が出来ていることもそれを後押しする。動物として強くなる。
私にとって健全な精神とは、動物的であることであり、野性であることである。野性的な連中は冴えている。そういう奴らにフィジカルに弱いやつはいない。体を鍛えれば、そこの近くまで到達できる。プロセスの逆転。

ただ、ほんとうに野性的で冴えてる連中になれるかどうかは、別だ。どこかに壁があるらしい。それは、得心の範疇を超えている。
どうにもならないのかもしれないし、どうにかなるのかも知れない。たまに努力して超えるやつがいる。なにかで線を超えたのか、持続して努力してそうなれたのかはわからない。だが、カクジツにいる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月 2日 (金)

うそ

「嘘をつき続けてきた人間は、つまり嘘をつくことが日常になっている人間は、自分が嘘をついているという実感が薄くなって、極端な場合には自分が嘘をついていることを忘れてしまうこともある。おれはそういう人間を何人も知っているが、絶対近づかないようにしている。この世の中で、そういう人間はもっともやっかいで、危険だ。」

『イン ザ・ミソスープ』でのケンジの言葉だ。自分に対して、嘘をつくことが日常になるとやばい。リスクをとることを恐れて、うそで欲望を押し込めてきたやつらにも近づきたくはない。そいつらは、やっかいで危険だ。

話はかわるが、正論も、それが物事の本質を押し込めていると、やっかいで危険になることがたびたびある。リスクが見切れてないという理由で、本題が切り捨てられた場合、かなりやばい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月26日 (月)

ドキドキしないとダメですな

鎌田茂雄さんの般若心経講話を何度も読んでいる。非常にわかりやすい名著だとおもう。

ただ、「顛倒夢想を遠離して涅槃を究竟す」っていうところまで来て、はたと困った。おや、お経とやらには生きるためのエンジンについての記述がないと。心の平安を保つには最高の教科書なのだが。

村上龍は、「男はどれだけ多くの情報と快楽を持っているかで決まる。」と言っている。情報と快楽を手に入れるのは、容易い事ではなく、当たり前の事だがリスクをとらないと情報も快楽も手に入らない。そういうことは、般若心経には書いていない。

前田日明は、「人間というのは状況によって研がれるから、状況をつくらないと駄目ですよ。」と言っている。そういうことも書いてない。このあたりは、三島由紀夫の「葉隠入門」には載ってそうだ。

もっと単純なことで、人間、ドキドキしないと楽しくない。異国の地で、「ここまでいると家に戻れないかもしれない」とおもいながら見た夜景とか、はじめての海外で車を運転して泊りがけの遠出をするとか、インドでノーヘルでニケツしてバイクに乗るとか、そういうちょっとした冒険をしないと生きてる気がしない。ああ、ドキドキしに行かないと。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月25日 (日)

自分のしつけ

練習をさぼると持久力がなくなる。

短い時間の集中や瞬発力はそれほど落ちないが、持続力があきらかに落ちる。継続することが基本ラインとして必要である。

同じ練習では、現状維持がぎりぎり。

スピード練習をするか、長距離を入れる。時間あたりの運動量をあげていくとともに、体や技術を意識できる時間を長くする。練習のなかで工夫する時間を長くしないと進歩はない。

勇気と無謀は、いずれも結果的に同じものが得られる。

自分の置かれた状況に背を向けないこと。一か八かの状況をくぐらなければ飛躍はない。

人間、結局気持ちが萎えたほうが負けなんですよ。

前田日明にいさんのありがたいお言葉。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月22日 (木)

シンクロニシティ

シンクロニシティについて、オーラの泉で、なにかを自分のなかで探していたときに、その答えを電車の中吊り広告に発見したとか、ラジオで答えを言っていたという話が出ていたが、所詮人は、自分が見たいものしか見てないし、聞きたいことしか聞いてない。だからその部分だけ強調して見えたり、聞こえたりするだけの話じゃねえかと思う。もっとも、直観的なものは侮れなくて、その「ひっかかったこと」が、前者なのか後者なのかは熟考する必要がある。

私の場合、ひっかかったことは、ちょっと考えればわかることばかりで、残念なかぎり。霊感ねーんだよなあ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月21日 (水)

露地考

「火宅を出でて白露地に座す」といわれる。俗世間から離れて、清らかな仏の世界に座すということらしい。禅の経典の一節からでたとか。茶の湯の世界では有名な言葉である。

露地は、茶室にいたるまでのアプローチ、茶庭のことだが、これって賽の河原なんじゃねえのかと最近思い始めた。

こうるさい俗世間の雑事から離れて、ゆったりとした時間の中で茶を飲んで英気を養って、また世間に戻っていく。そんなやわらかいほうの感じで考えてみても、死と再生がやはり茶の湯のテーマでもあるんじゃねえのかと。

鳥取県の三徳山に三仏寺という山岳寺院がある。入山して投入堂にいたるまでは、貸与された「六根清浄」と書かれたたすきを身につけて、鉄の鎖やロープ、剥き出しになった木の根にしがみついて登る難所を経なくてはいけない。「いっぺん、死んでこい!」ってとこだろうか。そのあと、鐘楼から納経堂の間にある「牛の背」「馬の背」と言われる、両側を断崖絶壁に挟まれた岩場を渡るらしい。「やっぱり、死んでからこい!」ってとこらしい。最後に納経堂だかの真っ暗な裏を通り、奥院である投入堂にいたるまでに死と再生を意識するような仕掛けとなっているとか。

考えてみたら、伊勢神宮の白い玉砂利の神殿までのアプローチも同じで、本来、参拝者は、神に会うまでにいったん死を意識する必要があるような気がする。

裸になって神の前に立ち、再生を願う。狭い裏手から暗い隧道を通って、ふたたび世の中に生れ落ちる。伊勢神宮の内宮は、そんな作りになっている。

一期一会なんてことを考えると、じゃあ亭主が神かよ!ってなってしまって齟齬をきたしてしまうのであるが、利休茶と禅茶は本来違うものなのかもしれない。まあ、人との出会いっていうのも、それが重ければ重いほど、自分の死と再生、痛みと喜びを伴うものであるから、目指すところは同じような気もするが、穿ちすぎか。

そういう意味で考えたら、よい露地というものの答えもおのずと出る筈である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月18日 (日)

書くことについて

たしか、村上龍だったかが、書くことは作家の病であるといっていた。ネットで、「村上龍」「作家」「書くこと」「病」で検索したら、山ほど無名の人の読書ブログが。。。

最近、読む本、読む本に作家の伝えようという意思が見えてきて、とくにがっちり構成を考えてある本には辟易してた。遠藤周作の「深い河」。別のブログにも書いたが、「いくつかの挿話を鏡のように配して、それが反射する光がある一定の方向を照らすように見せかける。光が交わって明るく見えた地点を読者に探させようとしている」と最初感じた。

当然、答えを与えられるより、自分で探したほうがそれは読者にとって残る。そういうのは、会社なんかでも、できる上司が自分の意図を伝えるために部下に使う手段だったりする。

作家にとっては、こういう構成作業は非常に楽しいだろうと思う。だが、金を出して本を買ってまでそんな自己満足につきあうのはバカバカしいと思った。

だが、本当は違うのだ。作家はただ単に病をもってるだけで、書くことによってそれを癒そうとしているのだ。作品は、箱庭療法で作成される箱庭みたいなものなのだ。箱庭作成は、つくるものにとっては、自分を癒すために必要な作業なのだ。私は好き好んでそれを買ってるだけなのだ。自分の治療法を見つけるために。。。

検索結果にあったように、多くの人が病をもっている。書かざるをえないから書いているだけで、「メッセージ性が強いから辟易する」とか「マスターベーションだ」っていう感想は、むごいもの、ピントはずれなものなのである。

独創的な箱庭、綺麗にできた箱庭を観賞するのは楽しいものでしょ?それで自分を治療できる方法や手段が得られたら、実際得られることもあるんだけど、それは出来すぎた話で、作家が非難される理由なんてないんです。

とやっと思えるようになった。おお、進歩だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

阿頼耶識

阿頼耶は梵語アーラヤの音字であり、蔵を意味する。生まれてからの経験だけでなく、自分の両親や祖先のおかしたありとあらゆる経験を貯蔵しているといわれる。

法相宗では、すべての現象を意識の活動からとらえるとか。薬師寺が法相宗の大本山である。この法相宗では根本識として阿頼耶識をたてるところに特徴があるらしい。

ユングの言う集合無意識っていうのも同じなんじゃねえかと思う。

最近、やたら考えごとが多いので、その整理と記録のため、またそれらを捨てていくためにこのブログを書くことにした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)