インタラクティブ・アートの意味論
インタラクティブ。観る者の存在を不可欠とし、観る者が作品に対してアプローチを行うことにより、作品と観る者が対話式に、もしくは相互に影響を及ぼしあうことを前提としている。ある種の作品は、観る者がタッチセンサー付の画面に触れることにより、出現する映像、光、音などが変化する。なにも作品が物理的に変化する必要があるわけではない。観客がその中に入る・通り抜ける・覗き込むことを要求する構造物とかも広義的にはインタラクティブな作品として認識されている。いずれにせよ、それらは、なんらかの観客の行為を要求し、それにより表情を変える。
インタラクティブ、なにも現代に始まったわけではない。日本庭園ですらインタラクティブ・アートである。
観客のアプローチが、観客に対してどのような影響を持ちうるのか。それが、インタラクティブという手法の意味である。
モネの絵がある。印象派。彼の絵は、近くで見るとドットで出来ている。遠く離れて見ることで、それらのドットが網膜上にイメージを結ぶ。ここで問題なのは、その手法である。人の脳みその働きを利用している点だ。眼から入った情報を、人の脳を借りて再構築することにより、その絵の持つ印象が、通常の絵が持つ印象より深く人の頭にインプリンティングされる。印象派、言い得て妙である。脳の働きを介在させること。人に理解を要求すること。この理解は、意識的なものであってはいけない。意識されてしまうとインプリンティングされにくい。無意識な、あるいは本能的な反応を介在させることが重要なポイントとなる。キュビズムも同じだ。ただし、こちらのほうは、見る者に意識的なアプローチを要求する。このため、インプリンティングの度合いが弱い。
ゴッホの絵がある。いわずとしれた印象派の絵であり、それは前回の日記に書いた麦畑に烏が飛ぶ絵をみればわかる。だが、じつはゴッホの絵が人に影響するのは、網膜上の色彩混合や、脳の中で焦点を結ばせるという手法が理由ではない。書かれている絵の情動である。ゴッホの絵が、他の印象派たちの追随を許さないほど多くの人に評価されるのは、その手法にあいまって、彼の情動が、観る者の脳裏で焦点を結ぶからである。
彼の感情が、そのイメージとともに頭の中で再構築される。イメージと感情が、彼の絵と頭の中で双方向的に作用して、拡散と収斂を繰り返す。もちろん、作品自体が物理的に変わるわけではないし、絵が客の自発的なアプローチを要求するわけではない。だから、厳密な意味ではインタラクティブではない。
これらはインタラクティブな作品とは呼ばれない。だが、人の意識・無意識上での作用する手法という意味では同じではないかと私は思っている。
心に残る芸術というのは、基本的にこのような相互作用が作品と自分の中で起こっているものだ。
観る者が、アプローチを行うことによってその作品に対する客の意識のありようが変わる。それがインタラクティブという手法のミソだ。非常に攻撃的な芸術。心理学と相互発展する余地が多い。
インタラクティブ、手法としてはこういう理由で潜在的な力は大きいと思う。が、それを使いこなすのは難しいかも知れない。いや、実は、思っているより、使うほうが易しいかもしれない。音を使うこととか。
音はやばい。これは絵画や彫刻などよりもっとやばい。が、どう「やばい」かはまだ私は掴みきれていない。
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