文化・芸術

2007年4月24日 (火)

インタラクティブ・アートの意味論

インタラクティブ。観る者の存在を不可欠とし、観る者が作品に対してアプローチを行うことにより、作品と観る者が対話式に、もしくは相互に影響を及ぼしあうことを前提としている。ある種の作品は、観る者がタッチセンサー付の画面に触れることにより、出現する映像、光、音などが変化する。なにも作品が物理的に変化する必要があるわけではない。観客がその中に入る・通り抜ける・覗き込むことを要求する構造物とかも広義的にはインタラクティブな作品として認識されている。いずれにせよ、それらは、なんらかの観客の行為を要求し、それにより表情を変える。

インタラクティブ、なにも現代に始まったわけではない。日本庭園ですらインタラクティブ・アートである。

観客のアプローチが、観客に対してどのような影響を持ちうるのか。それが、インタラクティブという手法の意味である。

モネの絵がある。印象派。彼の絵は、近くで見るとドットで出来ている。遠く離れて見ることで、それらのドットが網膜上にイメージを結ぶ。ここで問題なのは、その手法である。人の脳みその働きを利用している点だ。眼から入った情報を、人の脳を借りて再構築することにより、その絵の持つ印象が、通常の絵が持つ印象より深く人の頭にインプリンティングされる。印象派、言い得て妙である。脳の働きを介在させること。人に理解を要求すること。この理解は、意識的なものであってはいけない。意識されてしまうとインプリンティングされにくい。無意識な、あるいは本能的な反応を介在させることが重要なポイントとなる。キュビズムも同じだ。ただし、こちらのほうは、見る者に意識的なアプローチを要求する。このため、インプリンティングの度合いが弱い。

ゴッホの絵がある。いわずとしれた印象派の絵であり、それは前回の日記に書いた麦畑に烏が飛ぶ絵をみればわかる。だが、じつはゴッホの絵が人に影響するのは、網膜上の色彩混合や、脳の中で焦点を結ばせるという手法が理由ではない。書かれている絵の情動である。ゴッホの絵が、他の印象派たちの追随を許さないほど多くの人に評価されるのは、その手法にあいまって、彼の情動が、観る者の脳裏で焦点を結ぶからである。
彼の感情が、そのイメージとともに頭の中で再構築される。イメージと感情が、彼の絵と頭の中で双方向的に作用して、拡散と収斂を繰り返す。もちろん、作品自体が物理的に変わるわけではないし、絵が客の自発的なアプローチを要求するわけではない。だから、厳密な意味ではインタラクティブではない。

これらはインタラクティブな作品とは呼ばれない。だが、人の意識・無意識上での作用する手法という意味では同じではないかと私は思っている。

心に残る芸術というのは、基本的にこのような相互作用が作品と自分の中で起こっているものだ。

観る者が、アプローチを行うことによってその作品に対する客の意識のありようが変わる。それがインタラクティブという手法のミソだ。非常に攻撃的な芸術。心理学と相互発展する余地が多い。
インタラクティブ、手法としてはこういう理由で潜在的な力は大きいと思う。が、それを使いこなすのは難しいかも知れない。いや、実は、思っているより、使うほうが易しいかもしれない。音を使うこととか。

音はやばい。これは絵画や彫刻などよりもっとやばい。が、どう「やばい」かはまだ私は掴みきれていない。

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2007年4月21日 (土)

現代美術のコンポジション

2005年の横浜トリエンナーレに行った。現代美術、頭で考えて理解するものだと思っていたのでバカにしていたのであるが、NHKの日曜美術館で特集していて「どうも思ったものと違う」と出張先であまった時間を利用して行ってみた。

「現代美術、映像だけではわからない。時間・動き・空間・音・手触り。5感で感じるモノなんだもの。だから、絵画や彫刻みたいに、次世代には残らない。今、ここでしか、感じられないモノ。これが芸術?ってのも結構あった。」と当時の日記には書いている。

先日、草間彌生の作品(ピンクボート)を名古屋市美術館で見た。前から見ていて知っていたのだが改めて見直すと確かになにか引っかかる。なんだろうなあと考えていたが、どうも身体に直接作用するからだということに気付いた。

「心理学者ジュディス・ラングロワ(Judith Langlois)は、何百もの人間の顔のスライドを集め、次にそれらがどれだけ魅力的かを大人たちに評価してもらいました。それを次に3ヶ月と6ヶ月の乳児たちに見せました。すると興味深いことに、乳児たちも大人が魅力的だと思う顔をより長く、しかもずっと長く見つめたそうです。さらにそれらは、年齢・性別・人種は問題ないようだということも発見しました。赤ちゃんはとにかく最も魅力的な男性・女性・赤ちゃんをより長く見たそうです。写真に写っている人が黒人であるか、アジア人であるか、白人であるかに関係なくです。また、母親がどれだけ魅力的であるかや、自分がどの人種に属しているかとは無関係にです。」

ふむ。

『青山二郎全文集 [上] Photo (筑摩文庫)の「小林秀雄と三十年」に、小林秀雄が、ゴッホの麦畑に烏の大群が飛んでいる画の前でしばらく動けなかったことが彼の作品のなかに書かれているとの記述がある。

赤ちゃんは、ゴッホの烏には反応するのだろうか。数千万する茶碗と数百円で買える茶碗とを見せたら、どちらに長く眼を留めるだろうか。

赤ちゃんの眼が反応するもの、無意識のイメージを呼び起こさせられるもの、習慣から形式が発見されたもの(青山さんが「伝統と血の濃さが逆に個人の習慣を喰い食い尽くして仕舞う」と言われているもの)、もしくはただ頭で考えられたもの。

脊髄に眼と皮膚がくっついたような状態でもわかる美醜。無意識に訴えるゴッホの絵。伝統と血の濃さに自分の脳みそが喰らわれてしまうような湯呑。そのあたりまでが私にとっての美術で、それ以外は私には必要がない。
押し付けがましいイデオロギーが被せられたモノはいらないし、気持ちが悪い。そういう作品は、作者の心の治療にすらなっていないだろうと思う。意識が不快だ。

時間・動き・空間(囲まれ感?)・音・匂い・触感(もしくはそれを沸き立たせる色・光)。現代美術でのこれらの追求はまだ始まったばかりだと思う。時間?何に時間を感じたのだろう。これらについてはまた確かめなければならない。

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