河合隼雄

2008年2月14日 (木)

影との付き合い方

遠藤周作さんの『沈黙』をしばらく前に読んだ。そのだいぶ前に『深い河』を読んだのであるが、やはり、仮面を被って書かれているように感じてしまってしょうがない。
狐狸庵先生にしてもそうで、これもそれら本筋の作品に現れる彼の理性をわざとごまかす仮面のように思える。

Photo_2 今、河合隼雄さんの『影の現象学』(講談社学術文庫)を読もうとしている。解説を、遠藤周作さんに書いていただいたとの序。それで、解説から最初に読み始めた。その中に、おもしろい逸話があった。

「私の友人に井上神父というカトリック司祭がいるが、彼が「世にも怖かった話」としてリヨン時代の下宿での出来事を話していた。神学生のころ、彼はリヨンの老夫婦の経営する家に一夏下宿をしていた。その家の夫は病弱で妻はとても献身的だった。そして医者は妻に、夫のための食事療法の大切さを説き、病人が食べていいものと食べてはならぬものを教えているのだった。
だが、井上神父が不思議に思ったのは、毎夜食卓に出る愛情をこめて作られた料理は - 医師から禁じられているものだったのである。井上神父はびっくりして病人の妻にそれを注意した。
妻はよくわかっていると泪ぐみ、その翌日もその翌々日もやっぱり「食べてはならぬ食べ物」を夫の皿にのせた。そして夫がそのためぐったりと疲れ、胃の苦しみを訴えると妻は泣いて悲しむのである。彼女は本当に夫を愛しているのだ
この人間の複雑な心理。井上神父はついにこわくなって「その家を出て別の下宿に移った」という。」 

影の現象学をあつかった本の解説としては秀逸なエピソードである。これは、母性ともつながっている。ユングは、母性の本質として3つの側面をあげている。すなわち、「慈しみ育てること」「狂宴的な情動性」「暗黒の深さ」。

この本の解説で、遠藤さんは、自分を二重人格、どころか三重人格者ではあるまいかという気持ちが絶えずつきまとっていたといわれている。

ところで、太線で書いた部分というのは、遠藤さんのこころを現しているのだと思う。読んでいて違和感があったのだが、これが遠藤さんの本当の気持ちなんじゃないのかという気もしている。三重人格の三つ目が、河合さんの本の解説という飾らない素直なところで、やっと出てきている。解説全体に、そういう雰囲気が流れているのがわかる。そんな気がした。

が、ことはそんな簡単ではない。同じ解説で、

「ほんとうの内づらとは正宗白鳥の言った「どんな人にも、それを他人に知られるくらいなら死んだほうがマシだという顔がある」というその顔である。」
ということを言われている。

彼女は本当に夫を愛しているのだ
遠藤さんがそう言わざるを得ない、そう思い込みたいと思っているそのこと自身がそれを裏付けている。それが、私が感じた違和感の原因である。

母親との関係を常に意識されていたという遠藤さん。
人は、なにものかを対象として意識する、あるいは理想の鏡像として意識する過程で、そのもの自身を自分の中に取り込まざるを得ない。しかし、それは他者として。いま、ラカンの鏡像段階の本を読んでいるが、その他者としての母親が、彼の意識の中で辿るであろう運命というのは、書くのも恐ろしいのであるが、実はそれがもっとも他人に知られたくない遠藤さんの顔なのかもしれない。

が、しかしである。「べつにそんなの普通のことだから、そんな自分に目くじら立てなくてもいいのに」と相変わらず思ってしまった。

ほんとうに、やさしい人というのは生きるのは辛いと思った次第である。ただ、私のように割り切ってしまうと、生きる上での感動がなくなる。そっちの人にとっても、そういった意味で、生きるのは辛いことなのだが。。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月20日 (金)

河合隼雄さん

書かれたさまざまな著書からいろいろな啓示を頂きました。

ご冥福をお祈りいたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月 7日 (土)

物語

アフェクトと意識の間にイメージが存在する。『言葉』はアフェクトをイメージ化できる。イメージは指向性があるので、意識によって対応できる形にまで落ち着く。
精神分析の意味はそこで、アフェクトを意識で対応できるものにemerge(もしくは変容も含むのか)させることにある。腑に落ちることの意味はそれだ。「変容」、占いはその原理を利用している。占いを、卑劣だと認識する人がいるが、それは無意識にその変容を嗅ぎつけているからだと思う。変容のシステムは意識によって認知可能だ。だから、嗅ぎつけるというより実際に認識して糾弾してるのかもしれない。

「言語的に出来た自我というもの、これはすごい強いんです。」という意味の一部はそこにある。また、言葉というものの危険性もそこのある。トラップに満ちているが使わざるをえない。

先鋭化すること、逆にあいまいにして人にイメージを喚起させること。

あいまいにしてイメージを喚起させること、作家にはそのイメージはあるので、それをいかに読者に喚起させることを掴むことが書くことの極意のひとつだろうとおもう。方法論はいくつかある。ただ、方法論に固執し、言葉による先鋭化を目指した場合、効果は逆転してしまう。論理とは逆方向へひっぱらないと読者に影響は与えられない。意識化された文章が「オモロナイ」のはそのせいだ。キャラクター・ドリブンの小説がおもしろいのは、作家の無意識が関わってくるからで、そんなことはいわずもがなだ。

「オモロイ、オモロナイ」って河合さんが映画や書物について「こころの声を聴く」で言っているのは、論理化、意識化されるまでのそういうイメージを喚起させるもので、意識の変容を迫るものだ。当然、こちらの身体まで動き出しそうになったりもすれば、自分がそれまで正しいこと、変えたくないと無意識で守っていたことを変えさせられもする。本当に楽しいことは苦しみを伴うっていうのは確かだけれど、こちらの身体がおもわず動き出してしまうオモロイことっていうのもあるのは事実だ。
苦しみを伴わないやつのほうが個人的にはいいなあ。

ただ、最初に言った様な占い・まじないの文章のたぐいがある。私は、このあたりは、なにか読んでると気持ちが悪いので避けるのだが、本能で避けているのか意識でさけているのかはわからない。申し訳ないが、こういうのに女の人はひっかかりやすいように思う。一部に論理的なものを匂わせると特に。

綺麗なものには毒があるというが、毒があるから綺麗なので、棘のないバラだったら、この世でこんなにもてはやされることなどない。

こういう当たり前のことを言っても、意識化されているので全然「オモロク」ない。イメージ化すること、意識の下部方向へ引き下ろすこと。意識の下部方向は、下にいくほど多くの人とつながっているが、言語で到達できるのは上の方だ。下のほうは元型でその間に物語がある。

最近、どうも物語も昔のようなエディプスだの老賢人だのってのでは心が動かされないようになっているように思う。映画とかを見るとその印象が強い。科学技術や常識の変容は、意識の変容を促すが、それは今や物語レベルまで影響を与えているのではと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月24日 (土)

バベルの塔

神はバベルの塔を見て、人々に違う言葉を話させるようにした。結果、混乱がおこり、バベルの塔を作るために集まった人々は世界各地へ散っていった。
もともと、人々は同じ一つの言葉を話していたというが、実は与えられたのは言葉そのもので、そのため世界は混乱し、拡散した(あるいは混乱し得た、拡散し得たのか)のではという風に最近よく考える。
だから、いくら言葉でバベルの塔を作っても、天に届くことはない。神理はいつも言葉の外にある。
真理と神理は違う。真理は言葉で到達しうる。真理は矛盾してはいけないが、神理は矛盾をも含む。

河合隼雄さんがいうには、「西洋では言葉にできないものはすべて嘘なんです」(「こころの声を聴く」前述参照のp100 )だとか。
憐れ、神学。。。

ただ、河合隼雄さんは、おなじところでこう言われている。
「アメリカの大学では、若造がパッと手を上げて、すごい馬鹿な質問をするわけですよ。でもそれに対して先生はちゃんと答える。アメリカの大学院へ行って、僕の正直な感想を言うと「何と馬鹿なやつらが大学へ来ているか」。その結果、どうですか?学者はみんなアメリカの方がレベルが高いじゃないですか。これがなぜかというと、日本はどこかでツーカーの世界で溺れているから、無理にでも言語化して戦うところまで行かないということですよね。こういう点では、言葉にするということの意味を痛切に感じます※1」。

理論物理学者のスティーヴン・ウィリアム・ホーキング博士の公演会のあとの質問会で、ある学者が疑問を投げかけた。それに対するホーキング博士の答えがみんなわからなくて「?」となっていたら、別の学者が、ホーキング博士の解をわかった上でさらに核心をつくまとめを彼に投げかけて、ホーキング博士は頷いた。そのまとめで、みんながホーキング博士が言ったことが理解できたということがあったというのをどこかで聞いたことがある。ツーカーは、どこの国でも、どんな頭の切れる学者にでもあるが、そういう風に言語化されることによって学問は進んでいく。

混乱し、拡散し、収束する。その力は、生命力の根源だったりもするのか。神理は遠い。

※1 このあと、河合さんは、「言語的に出来た自我というもの、これはすごい強いんです。」と言われているのだが、これについては、私はまだしっぽも影も掴めていない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月20日 (火)

遠藤周作 深い河

ルオーにとって、ピエロはイエスの象徴だとか。

NHKの日曜美術館で、遠藤周作さんがルオーについて語っていたのを思い出した。キリストは、ルオーの中では、同伴者とともに歩いてくれる人間としての存在である。おっかさんのやさしさをルオーのキリスト像から感じると。

深い河には、おっかさんとキリスト教についての彼の苦悩が書かれている。大津の苦悩は彼の苦悩である。「神は人間の外にあって、仰ぎみるものではないとおもいます。それは人間のなかにあって、しかも人間を包み、樹を包み、草花をも包む、あの大きな命です」。汎神論として異端視される大津の苦悩は、遠藤さんの苦悩であったようだ。おっかさんによって与えられたキリスト教。それに添えない自分。ピエロ。

ルオー、西洋人でキリスト教徒である彼から、「それでいいんだよ。間違ってないよ」という答えを貰って、遠藤さんはやすらぎを得られたのでしょう。

河合隼雄さんの「こころの声を聴く」という対話集で、遠藤さんが「王の挽歌」を書いたいきさつについて語っておられる。キリスト教にしがみつきながらもなかなか洗礼を受けられない大友宗麟について、「煮え切らん男で、云々。これは自分を投影できるだろうという気になって書き始めた」と。

その後は、宗麟について客観的に語っておられるのだが、河合さんは聞き上手なので、遠藤さんが宗麟に投影した自分の迷いを、河合さんに疑問で投げかけるような形に対話が流れていく。

その流れのなかで、遠藤さんが、河合さんがユングを日本にもってくるとき、ユングを日本的に屈折することについて「あってはならないもの」として「そこにもやっぱり問題があるんじゃないか」と河合さんにつめよるくだりを読んで、「ああ、そうだったのか。だから、大津の苦悩をしょわれているのか」と得心した。遠藤さんは、非常に頭のよいかたなので、迷いや悩みを常に頭で理解し解決しようとされておられたのだろう。

私はバカなので、べつに西洋人の考えるキリスト教と自分のキリスト教の信仰が違ってたっていいじゃんとおもって気にもしないのであるが。

踊るあほうに見るあほうっていうやつでは、当然見る人は頭のいい人のことを指すのだが、やっぱり、頭の弱い踊る人になったほうがよいでしょ?あとで、それなりのしっぺ返しは食らうかもしれないけれど。

| | コメント (0) | トラックバック (0)