魂のかたち
一昨日、サントリーの白州を飲んだ。昨日、山崎を買って来て今飲んでいる。白州は、スモーキーなフレーバながら、裏に隠れた軽妙なフルーティさが見え隠れする、無骨さのなかに新鮮な心が見え隠れするような香りである。スモーキーでありながらかすかな甘い後味がすっと消えていく。山崎は、それとくらべたら天使みたいである。華やかで甘いながらしっかりとした個性をはなつフレーバー。白州がいぶし銀のなかのうっすらとほのかな白い金とするなら、こちらは天使の白と華やかな金。いずれも10年ものだが、それでもおなじくらいの値段のバーボンなんかと較べるとぜんぜん品格が違う。たかだが4000円のシングルモルトですらそうであるから響の30年もの(※1)など一体どんなものなのやら。。。
昨年であるが、NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』にサントリーのウイスキーブレンダー輿水精一さんが出演されていた(参考:サントリー 山崎蒸溜所 Blog(ブログ))。毎朝、朝一番に同じ時間に出勤し、昼食ははいつも天ぷらうどん。午後のテイスティングの条件を同じにするためだ。非常にストイックである。ブレンダーはものさしだ。ブレてはいけない。ぶれないこと、そして「本当に自分は今納得しているか」を最後の山場で問えること。
人間であり、動物であるからそうはいっても日々体調は違う。ブレないこと。それは、意志である。前田日明にいさんは、「プロは人が気付かないような義務まで自分で作り上げてやってくことで認められてる世界だから、自分が何をすべきかっていうのが大事だよね。」と言っている。
彼の姿は、ひじょうに美しかった。本質的なものに常に心を移動させることと前回書いたが、彼が追い求めてるのは変らない、追い求めているのは、おそらく自分だ。生まれ育ち、いろいろな香りを季節ごとに嗅ぎ、いろんなものを味わってきた自分。香り、匂いのほうが比重は大きいような気がする。果たしてそれは執着なのだろうか。執着は煩悩である。
執着は、また様式美も生み出す。様式美を美しいと思う心がある。美しいと思う心が仏性であれば、執着に支えられた様式美も仏性である筈ではないのか。
シンメトリーは、建築には好まれない。完全なシンメトリーを持つ建築もどこかひとつはシンメトリーを外されていると聞く。シンメトリー、完全なものは、人の破壊衝動を呼び起こすからである。
古来より、3、5、7は吉数とよばれ、それを組み合わせた15は完全を表すという。龍安寺の石庭に配された石の数は、15個。東から、7,5,3個の組み合わせで岩組みが配置されている。15個の石は、庭をどちらから眺めても、必ず1個は他の石に隠れて見えないように設計されているという。これが、未完成の完成を表している庭といわれる所以である。
いずれにしても、目指すものは完全であり永遠である。完全ありき。その意志のないところには美も仏性も現れてはくれないだろう。
ここにひとつの井戸茶碗の絵がある(『いまなぜ青山二郎なのか』白洲 正子 (著) p49)。青山二郎の『愛陶品目録』に描かれたものである。この井戸茶碗はいったい完全であろうか。シンメトリーではない。様式美とも違う。それでも、この茶碗には惹かれる。「人が見たら蛙になれ」。青山二郎の言葉だ。それをまさに感じさせる茶碗。彼がこれだけは生涯持っていたいと思ったものの一つとすればそれはもっともなことだと素人目にも判じれる。何故?何故この茶碗に惹かれるのだろう?
昨日、『たけしの誰でもピカソ』にデュシャンの『泉』(作品自体は紛失しているため模造品)が出ていた。商店から購入した男子用の小便器に「R. Mutt」という署名をしただけのものだ。ビートたけしは、このあとピカソの絵について、後期のピカソの絵は便所の落書きと評していた。まさにその通りだと私は思う。これらは、概念の遊びで、美ではない。非常にフランス人的。これらの作品に私は美を感じない(ただ、そういうフランスから多くの美術が生まれている。多様性のある土壌なのか。多様性のないところに力強い生命は生まれない)。
「魂があるんだったら、形にでるはずだ」「精神的なものが精神を隠してしまう」いずれも青山二郎の言葉だ。そのあたりに答えはあるように思う。
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