読書

2008年10月 8日 (水)

『真夏の死』 三島由紀夫 新潮文庫 

人の手放しの批判を読むのは好きではない。それは、自分が傷つきたくないという恐怖からきているのだろう。

まあ、そういう告白はともかく。

三島由紀夫の『真夏の死』をやっと読み終えた。

中学校のとき太宰治の『人間失格』を読んで目が眩むような思いがした。いまだにそれ以上に、自分の足元をすくうような本には出会ってはいない。多感な時期に読んだからだろう。

もう何を読んでも足元はふらつくことはないが、それでも『人間失格』にあった、人が持つ動物としてのサガを鷲づかみにして手元で見せられるような、そんな感じは体のどこかが覚えていた。それを思い出した。人の持つ業などではなく、もっと直接的で動物的ないやらしさ、それを目の当たりに見せられる。自分の中に呼応するものがある。それを知る。それに対する嫌悪。

三島の短編は違う。毒の種類が違うのである。頭を通して効くのではない。もっと直接に体に直に効く猛毒。いっきに体に来るので甘美がない交ぜとなって体が震える。

いずれにせよそんな経験をさせられる小説はいまのところ自分にとってはこの2冊しかない。まあ、本というものを読んでないからかも知れない。

表題作の『真夏の死』は、巻末で三島自身が語っているとおり、眼目は最後の一行にある。海を眺める朝子にはない。それを見た勝の反応である。なぜ、子供の手を握ったのか、それが体で直感できないと朝子にしか目が行かない。

「それは待っている表情である。何事かを待っている表情である」。そう思った主体が誰かということを見透かせないようだと、つまり、これを朝子側の「業」と読み違えるようでは、見方が浅いとしかいいようがない。あるいは深すぎるのか。

倉橋由美子は、「三島由紀夫は尋常ならざる作家で、…その短編は『悪』の濃度が高く、毒薬を口に含んで味わうような趣があります」と言っている。そう、ゆるい毒ではない。頭を通した後から効いてくる、そんなふうにゆっくり効くような毒じゃない。もっと純度が高い猛毒である。

これを中学のときに読んでたとしたら、はたしてそこまでわかったろうか。たぶん10年前でもわからなかったかもしれない。

さらに倉橋は続ける。「読み終わってそれを吐き出すか、そのまま飲み下すかは読者の自由です。私としては、「きき酒」の要領で、一度吐き出しては次々に三島由紀夫の短編を楽しむことをお薦めします」と。

再度言う。彼の毒は体に直接効く。頭を通して効くのではない。どうやら、飲んでも効かないような耐性をもった体の人もいるようで、それは頭に抗体を持っているのか、もともとそれに反応するものを体に持っていない人らしい。

まあ、自分も飲み干しても死なないようで、それは読むタイミングが悪かったのか、あるいはそれが嬉しいことなのか悲しいことなのかも、はかりかねているところである。

|

2007年3月 7日 (水)

村上龍の預言について

村上龍の小説やエッセイを読むと、それぞれに散りばめられた文章は珠玉の文章で啓示と直観に満ちているという思いを抱く。だが、それを連ねた長編小説や、未来予測(経済含む)は、現実の世界進行と乖離することが多い。いくつかの長編小説、たとえば『超電導ナイトクラブ』は物語としても破綻して空中分解しているし、『愛と幻想のファシズム』も現実に対しては不時着すらしていないという思いがある。映画や中田英寿やキューバ音楽やテニスなどもそう。かならずしも現実とは一致しない。
なぜ、そのような乖離が起こるのか考えていた。

今週のカンブリア宮殿のテーマは、花王だった。村上龍さんのスタンスは、基本的な花王の戦略である「革新innovationではなく、改良improvement」は、どんな業態、商品、会社にも成功法則としてあてはまるわけではないのではないかというものであった。

龍さんの基本スタンスは昔からかわっていないのかもしれない。ユニークな、というより唯一無二のモノを成功者に対して探そうというスタンスで、百姓的な努力はいくら重ねてもトップにはなれないだろうという価値観が裏に見え隠れしているように思う。実際、龍さんのその直観は、事実なのかもしれないが、すべての成功例がそうではないと思うし、またそれだけでは状態の維持は不可能だと思う。番組終了後の龍さんの編集後記コラムを読んだが、花王が現実にとったメソッドが普遍的に通用する保障はないと締めくくっていた。

理想を現実にあてはめすぎる、繋ぎの部分の軽視、もしくはバッファ的なもの*1の予測力に欠けるからというのが、今の私の考えである。

ただ、現実と乖離していようが、すごい物語を提示して貰っているということは私にとっては変りはない。

愛と幻想のファシズムを読み直している。彼、村上龍はトウジかゼロかという議論があったが、龍さんの実像はゼロでもない。あたりまえのことだが。

*1 バッファ的なもの:CPUでのキャッシュ管理とか。スレッド管理とかも。主的な処理プロセスに対する副次的なメソッドの存在の認識や、その具体的な処理方式に対する考察。またはその出現に対する予測。

CPUやSMPなどのハードウエア機構やLinuxカーネルのカーネル内部処理およびカーネルデベロッパー達のメーリングリストなどを読んでその理論の発達とか開発の流れを小説に応用もしくは演繹できるとおもう。実は『超電導~』はそのあたりを無意識につかんでやろうという試みがあったのかもしれない。とはいえ、超電導は書いてる理論も矛盾してたり突飛だったりで、結局、雰囲気で遊ぶ小説になってしまって、それはそれで面白いのだが。まあ、実際は、龍さんはいつものように、最先端技術を扱ってるとんでもなく賢い奴らの成功エッセンスを拾おうとしてたのかも知れない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月 2日 (金)

夏目漱石、村上春樹と村上龍

今日、夏目漱石の『こころ』を買った。漱石、現実世界で実際に発生するエゴと環境の葛藤を描いているらしい。

情報と選択肢が多すぎで、葛藤が多様化している現代では、そういうレベルでは物語がうまく語れなくなってしまった。と、河合隼雄さんとの対話で、村上春樹が語っている(河合隼雄対話集「こころの声を聴く」)。対話は『ねじまき鳥クロニクル』第2部までが刊行された時点で行われたもので、それも含んだ上でなされている。

「エゴと環境じゃなくて、その両者の関係をそのまま意識の下部方向に引き下ろすんです。そして別の形でシミュレートするわけです。これが僕にとっての物語の意味であるというふうに思う」村上春樹は語っている。対談は、1994年の5月5日に行われている。

村上龍の『最後の家族』も買った。もしかしたら、この本が漱石の現代版なのかと。情報と選択肢が多すぎで、葛藤が多様化している現代でのリアル版漱石。シミュレートではない物語。『最後の家族』は2001年の7月に脱稿されている。

『愛と幻想のファシズム』が手元になかったのでそれも今日買いなおした。もしかしたら、これが村上龍な物語版シミュレートなのかもしれない。それを確かめるために。

とりあえずパラで読んでみる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)