身体にやどる芸術
身体に宿る伝統というものがあるようだ。
甲野善紀さんの「身体から革命を起こす」に書かれているのだが、現代舞踊家の山田うん氏が、フランスでバレエをならっていたとき、レッスン中に、自然と右手と右足が出て、先生方に「そんな人はみたことない。バレエの基礎も持っていないのか」と驚かれたとか。いわゆるナンバの動きなのだが、今もナンバは日本人の身体の深くに潜んでいて、折あらばでてくるそうで。山田うん氏が語るには、「日本でママさんクラスのワークショップをやった際、ある動きをやって、今度はそれを背を正面にそっくり後ろ向きでやってみましょうというと、若い人でもナンバになってしまう」そうである。
私も経験があるが、山歩きをして疲れてくるとナンバになったり、あるいは力を入れる動きを持続的にするばあい、ナンバのほうがやりやすくて疲れないということがある。
よく、集合無意識には何層かあって、民族レベルの層というのがあることが取りざたされるが、身体にもそういう層があるらしい。
意識が危機を迎えた場合、無意識層から意識の表層レベルに現れて、心の恒常性を保とうとするエネルギーがあるということをユングは言っているように私は理解しているのだが、身体にもそういうシステムがあるようで、なんらかの異常な状況では、そういう層が身体の表層に現れるのだろう。
それが良いものなのか悪いものなのかわからない。が、身体も、答えを知っているのだ。
伝統芸能やあるいは現代舞踊でもそうだけれど、見ていると身体にまで影響を及ぼすようなものがある。おそらく、目や耳や身体は理解しているのだろうが、意識はそれを認識していない。そういうものを掘り出すのが芸術の役割なのだ。逆に言えば、そこまで掘り下げられていないものは、芸術性がない。意識レベルで捏ねられたものやイデオロギーをまぶされたものに芸術としての存在意義などないと個人的には思っている。
ただ、こういうことは言えるかもしれない。パブロフの犬の条件反射は、人のよく知るところで、ベルだけでよだれを流す犬を哀れがるのが人の常だが、自分自身の行動や精神活動が実はさまざまなレベルの条件反射から抜け切れていないことにはたと気付くことは少ない。なんら成長しない。まわりの状況が変わっても、それなりに反応の仕方が変わるだけの永久ループ。ブレーク文の打ち方は自分で見つけることは難しい。そういうときに答えを与えてくれるものであれば、その芸術は個人的なものであっても、存在意義は十分にあると。
絵や彫刻などを見て、そこまでほんとうに動かされたものがあるかと問われると、私には経験がない。だが、上にも記述したように、答えの与えられ方は、意識されるものだけではない。身体に直接与えられたり、心に潜んだりする。長い時間、醸成されて、なにかのときに身体に現れるというものもあるのだろう。
すぐれた芸術は体にもしまいこまれるし、すでに身体に宿ったものを共鳴させたりもする。意識レベルでどうのこうの語れるレベルにはないものもあってそれが芸術の本当の意義なんじゃないかと最近思っている。
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