甲野善紀

2007年8月31日 (金)

身体にやどる芸術

身体に宿る伝統というものがあるようだ。

Photo_2 甲野善紀さんの「身体から革命を起こす」に書かれているのだが、現代舞踊家の山田うん氏が、フランスでバレエをならっていたとき、レッスン中に、自然と右手と右足が出て、先生方に「そんな人はみたことない。バレエの基礎も持っていないのか」と驚かれたとか。いわゆるナンバの動きなのだが、今もナンバは日本人の身体の深くに潜んでいて、折あらばでてくるそうで。山田うん氏が語るには、「日本でママさんクラスのワークショップをやった際、ある動きをやって、今度はそれを背を正面にそっくり後ろ向きでやってみましょうというと、若い人でもナンバになってしまう」そうである。

私も経験があるが、山歩きをして疲れてくるとナンバになったり、あるいは力を入れる動きを持続的にするばあい、ナンバのほうがやりやすくて疲れないということがある。

よく、集合無意識には何層かあって、民族レベルの層というのがあることが取りざたされるが、身体にもそういう層があるらしい。

意識が危機を迎えた場合、無意識層から意識の表層レベルに現れて、心の恒常性を保とうとするエネルギーがあるということをユングは言っているように私は理解しているのだが、身体にもそういうシステムがあるようで、なんらかの異常な状況では、そういう層が身体の表層に現れるのだろう。

それが良いものなのか悪いものなのかわからない。が、身体も、答えを知っているのだ。

伝統芸能やあるいは現代舞踊でもそうだけれど、見ていると身体にまで影響を及ぼすようなものがある。おそらく、目や耳や身体は理解しているのだろうが、意識はそれを認識していない。そういうものを掘り出すのが芸術の役割なのだ。逆に言えば、そこまで掘り下げられていないものは、芸術性がない。意識レベルで捏ねられたものやイデオロギーをまぶされたものに芸術としての存在意義などないと個人的には思っている。

ただ、こういうことは言えるかもしれない。パブロフの犬の条件反射は、人のよく知るところで、ベルだけでよだれを流す犬を哀れがるのが人の常だが、自分自身の行動や精神活動が実はさまざまなレベルの条件反射から抜け切れていないことにはたと気付くことは少ない。なんら成長しない。まわりの状況が変わっても、それなりに反応の仕方が変わるだけの永久ループ。ブレーク文の打ち方は自分で見つけることは難しい。そういうときに答えを与えてくれるものであれば、その芸術は個人的なものであっても、存在意義は十分にあると。

絵や彫刻などを見て、そこまでほんとうに動かされたものがあるかと問われると、私には経験がない。だが、上にも記述したように、答えの与えられ方は、意識されるものだけではない。身体に直接与えられたり、心に潜んだりする。長い時間、醸成されて、なにかのときに身体に現れるというものもあるのだろう。

すぐれた芸術は体にもしまいこまれるし、すでに身体に宿ったものを共鳴させたりもする。意識レベルでどうのこうの語れるレベルにはないものもあってそれが芸術の本当の意義なんじゃないかと最近思っている。

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2007年7月 3日 (火)

一生大自在

甲野善紀氏の松聲館道場にかかっている掛け軸にはそう書かれている。
自在であること。執着や居付きというものから離れて自由であること。果たして自分が何者であるかということから離れて、自由になることは可能であるのか。

白と黒、善と悪、美と醜、二元論的な考え自体が自在であるということから離れているが、果たしてこれらの区別を持たずに自在であることの優位性を語ることは不可能であるように思う。すなわち、なんらかの基準となるものが己の中にある筈である。

生きるうえでのエネルギーの肯定や、死や病の否定という価値観、生き方というものがある。ゲンを担ぐ、穢れを嫌う、スポーツ選手や生命力の強い野性的な連中が身にまとっている、もしくはそれらから逃れられない価値観。神や神社が持つ価値観。
あるいは、執着、あるいは美。なにものにも犯されえないものの賛美。

生きていくうえで必要なエネルギーはそれらの執着から生まれてくるように思う。それらを否定することは生そのものを否定することになる。
ただ、執着から離れない限りは本来の生は得られない。では、なにを心の中心に据えようか。

美しいものを美しいと思う心。醜いものを醜いと思う心。それらの基準から離れて自在であろうとすること。生きとし生けるもののすべてのかたちの肯定、いのちの肯定。
いのちの肯定、しかし、それらの肯定に揺らぎつつ、揺らがない。揺るがない。それが自在であることだと思う。自ずから在るということ。自らはあるのである。

自らの中に仏性は必ずあると信じている。それを信じたい。そしてそれを形にしよう。青山氏の言うように。魂というものがあるならばそれはかたちに出る筈なのだと。

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