もとい。。
言葉が「ものを分節する」際に、心的エネルギーが呪縛を行使し始めるのではない。
心的エネルギーは、経験と感覚・感情の積み重ねによって生じるものである。本能的なものもある。それらと経験が強固に結びついたものもある。
いずれにせよ、本人の、その「もの」に対する歴史に比例するもので、言葉の発生とは関係はなかろう。
歴史や感動を同じうし、共感を引き起こすところに詩や俳句の本当の妙があるのであって、それはその人の因果とか縁とかいうものなんじゃねえかなあ。
言葉自体は、そのものの成立に意識・無意識が働いているにしろ、人によって使われるときには、作り手と受け手の感情はどうあれ、伝達という手段のうちでは、やはり記号としての意味合いが強いし、言葉自身にはエネルギーはないような。ITとかユビキタスとか、その人が知らない言葉を知るときの自分の心の動きを思い出せばわかる話で、ものを分節するものというよりは、最初は記号として自分の目の前に登場してから、いろいろその言葉に出会うにつれて、関係性が出てくるのであって、分節でエネルギーが発動してどーたらつうのはねえんじゃねえか。送り手と受け手の間の関係についても、クオリアを考えればわかる話で、人の「赤」と自分の「赤」は違うんだから、エネルギーっていう観点からすると、まあ触媒みたいな働きをするものというほうが合っているような気がする。
子供の時に、詩や俳句を教科書で読ませられても、なんだかくだらねえし、どこがいいのかわからない。私はそう思ったし、そういうコが大半じゃないのだろうか。
それを味わうための人生というものはどうしても必要で、山頭火を中学生に読ませてもほんとにわかってるのかは疑問だ。
だが、子供達は、なにかを確かに感じていることはある。3歳くらいの子供と生活していると、そういう感得能力がすでに備わっているのが見て取れることが多々ある。
なかなか、あなどれないのだが、それをアラヤ識と結び付けられても、なんだか納得はできないのだよなあ。
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