井筒俊彦

2007年11月12日 (月)

もとい。。

言葉が「ものを分節する」際に、心的エネルギーが呪縛を行使し始めるのではない。
心的エネルギーは、経験と感覚・感情の積み重ねによって生じるものである。本能的なものもある。それらと経験が強固に結びついたものもある。
いずれにせよ、本人の、その「もの」に対する歴史に比例するもので、言葉の発生とは関係はなかろう。
歴史や感動を同じうし、共感を引き起こすところに詩や俳句の本当の妙があるのであって、それはその人の因果とか縁とかいうものなんじゃねえかなあ。
言葉自体は、そのものの成立に意識・無意識が働いているにしろ、人によって使われるときには、作り手と受け手の感情はどうあれ、伝達という手段のうちでは、やはり記号としての意味合いが強いし、言葉自身にはエネルギーはないような。ITとかユビキタスとか、その人が知らない言葉を知るときの自分の心の動きを思い出せばわかる話で、ものを分節するものというよりは、最初は記号として自分の目の前に登場してから、いろいろその言葉に出会うにつれて、関係性が出てくるのであって、分節でエネルギーが発動してどーたらつうのはねえんじゃねえか。送り手と受け手の間の関係についても、クオリアを考えればわかる話で、人の「赤」と自分の「赤」は違うんだから、エネルギーっていう観点からすると、まあ触媒みたいな働きをするものというほうが合っているような気がする。

子供の時に、詩や俳句を教科書で読ませられても、なんだかくだらねえし、どこがいいのかわからない。私はそう思ったし、そういうコが大半じゃないのだろうか。
それを味わうための人生というものはどうしても必要で、山頭火を中学生に読ませてもほんとにわかってるのかは疑問だ。
だが、子供達は、なにかを確かに感じていることはある。3歳くらいの子供と生活していると、そういう感得能力がすでに備わっているのが見て取れることが多々ある。
なかなか、あなどれないのだが、それをアラヤ識と結び付けられても、なんだか納得はできないのだよなあ。

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2007年11月 6日 (火)

言葉と本質

宮本輝さんの流転の海シリーズの天の夜曲を眺めなおしている。中上健次氏の岬を読んだ。いずれも、リアルな生を描いているという直覚がある。

井筒俊彦氏の著作については、「イスラーム文化」、「イスラーム哲学の原像」「意識の形而上学」を経て、本題の「意識と本質」に入った。

リアルな生、リアルな事物は、文芸や芸術でしか提示できない。宮本さんや中上氏などが切り取って「ほら。」とわれわれに投げかけてくる、まだドクドクと波打つ生暖かいヌルヌルとした肉塊。

リアルな生、リアルな事物は言葉では表現できない。言葉は、本質的に事物の影である。
コンテキストあるいはヴィトゲンシュタインのいう命題で、言葉や記号を尽くして現されるものは、形而上的な、実在事物の影。

リアルなもののもつ個性的な本質、「それが在る」という実在性。
それとは別に、例えば、ある火をみれば、それは別の火とは、実在としては別であるということは知りながらも、なおかつ、それを「火」であるとわれわれが認識する、もしくはわれわれを認識させる何か。
その2つのモノは、形而上学や哲学では、それを現そうとして用いる「言葉」や「記号」の本質が、もともと実在の「影」・「像」であることから、これらで表せられないのは自明。

ヴィトゲンシュタインは「われわれは事実の像を作る」のであり「像は現実に対する模型」であるといっている。世界の模型をつくる。
ただし、彼が使っている言葉や記号自体がすでに模型であることに、彼は気がついているのだろうか。

模型は現実の世界ではない。

また、こういうことが言える。
言葉は「ものを分節する」という方向性を持って発動された際に、実在を「名」によって固定化し、リアルなモノに定着する。
が、それと同時に、リアルなもののもつ実在エネルギー、逆にいえば、我々の心的エネルギーそのものが、行き場を失って、言葉に張り付き、我々の情念や実存意識に強烈な呪縛を行使しはじめると。それを仏教用語で「煩悩」というのだと。
井筒氏の言われていることはそういうことなのだろうと、わたしは今は理解している。

小説は、その文脈や物語のなかで、我々が持つその心的エネルギーをたわませ、発條させる機構をリアルに持っている。どこに持っているのかは、私はまだこうだと指摘できない。
それらは、言葉のもつ煩悩をどういうわけか発動させてしまう。短歌や詩などは、ひじょうにうまくそれらを発動させる機構を持っている。その機構が優れている、巧みでありながら、直接的であるものほど、我々の心を揺さぶる。
そして、それらの言葉が持つ心的エネルギーそのもの、実在のエネルギーそのものが、我々の生なのである。
よって、哲学書を読んでも物理学書を読んでも、生は得られないのはあたりまえのこと。
それだけのことだ。
ただし、哲学や物理学を求める心的エネルギーだけは、それこそ、リアルな生である。
模型には模型の実在はあるのである。

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