言葉と本質
宮本輝さんの流転の海シリーズの天の夜曲を眺めなおしている。中上健次氏の岬を読んだ。いずれも、リアルな生を描いているという直覚がある。
井筒俊彦氏の著作については、「イスラーム文化」、「イスラーム哲学の原像」「意識の形而上学」を経て、本題の「意識と本質」に入った。
リアルな生、リアルな事物は、文芸や芸術でしか提示できない。宮本さんや中上氏などが切り取って「ほら。」とわれわれに投げかけてくる、まだドクドクと波打つ生暖かいヌルヌルとした肉塊。
リアルな生、リアルな事物は言葉では表現できない。言葉は、本質的に事物の影である。
コンテキストあるいはヴィトゲンシュタインのいう命題で、言葉や記号を尽くして現されるものは、形而上的な、実在事物の影。
リアルなもののもつ個性的な本質、「それが在る」という実在性。
それとは別に、例えば、ある火をみれば、それは別の火とは、実在としては別であるということは知りながらも、なおかつ、それを「火」であるとわれわれが認識する、もしくはわれわれを認識させる何か。
その2つのモノは、形而上学や哲学では、それを現そうとして用いる「言葉」や「記号」の本質が、もともと実在の「影」・「像」であることから、これらで表せられないのは自明。
ヴィトゲンシュタインは「われわれは事実の像を作る」のであり「像は現実に対する模型」であるといっている。世界の模型をつくる。
ただし、彼が使っている言葉や記号自体がすでに模型であることに、彼は気がついているのだろうか。
模型は現実の世界ではない。
また、こういうことが言える。
言葉は「ものを分節する」という方向性を持って発動された際に、実在を「名」によって固定化し、リアルなモノに定着する。
が、それと同時に、リアルなもののもつ実在エネルギー、逆にいえば、我々の心的エネルギーそのものが、行き場を失って、言葉に張り付き、我々の情念や実存意識に強烈な呪縛を行使しはじめると。それを仏教用語で「煩悩」というのだと。
井筒氏の言われていることはそういうことなのだろうと、わたしは今は理解している。
小説は、その文脈や物語のなかで、我々が持つその心的エネルギーをたわませ、発條させる機構をリアルに持っている。どこに持っているのかは、私はまだこうだと指摘できない。
それらは、言葉のもつ煩悩をどういうわけか発動させてしまう。短歌や詩などは、ひじょうにうまくそれらを発動させる機構を持っている。その機構が優れている、巧みでありながら、直接的であるものほど、我々の心を揺さぶる。
そして、それらの言葉が持つ心的エネルギーそのもの、実在のエネルギーそのものが、我々の生なのである。
よって、哲学書を読んでも物理学書を読んでも、生は得られないのはあたりまえのこと。
それだけのことだ。
ただし、哲学や物理学を求める心的エネルギーだけは、それこそ、リアルな生である。
模型には模型の実在はあるのである。
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